『アデル、ブルーは熱い色』──フランス映画の独壇場 [映画レビュー]
『アデル、ブルーは熱い色』(アブデラティフ・ケシシュ監督、
2013年、179分、原題『LA VIE D'ADELE/BLUE IS THE WARMEST COLOR』)
フランスのコミックが原作である。そのコミックのタッチは、つげ義治風。それ以上はわからない。映画は、アデルという名の、フランスの高校生の生活が、ただただ描かれる。しかし、高校生と言っても、そこは「おフランス」、日本と全然違う。そこんとこを、日本人は反省すべきである。まず、フランスの高校生は、性的にも精神的にも完全におとなで、デモへ行くことも、文学、哲学を語ることも、あたりまえの日常としてある。
そういう高校生のアデルが、青い髪の一風変わった女に「一目惚れ」し、その女に深く惹かれ、存在のありったけを傾けて恋に溺れてしまう。ここがすでにちがうのである。「存在のすべてをかけて恋に溺れる」なんてことは、普通は、中原中也とか太宰治とか、日本の高校生は、そういうテキストのなかでしか知らない、どこか違う世界のできごとである。だから、アンタは、ダメなのよ。ままごとしかできない高校生は、文学的にも哲学的にも深まらないまま、ビジネス社会に組み込まれ、気づいた時には、しょーもない中年である。
もしかして本編のアデルは、マルグリット・デュラスか、ミラン・クンデラのような、いっぱしの作家になるのかもしれない。いまはありったけの、「青春」とは言わない、「若い時間」に「在る」。
ほとんどのシーンがアップなので、アデルが育った家の内部も、恋する女流画家の親の家の内部も、全体は見えない。そして、アデルの張り切ったピンク色の肌や産毛、髪の毛の一本一本に日の光が当たったところも映しだし、二人の若い女が延々と絡み合うセックスシーン、ほかの男とのキスシーンなど、たっぷり濃厚に、これでもかとやってくれるが、それが、日本のロマンポルノとか、ピンク映画とか、そういうものと趣をまったく異にしているので、下手すると「名画」を見ているような気にもなってくるのである(笑)。いやー、もう、おフランス映画の独壇場としか……。
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