SSブログ

【映画分析】 『永い言い訳』──「愛されないためにそこにいる」 [映画分析]

 


  美容師の妻が親友とスキーツアーに行って、そのバス事故で突然死んで、作家の夫はその最中に若い女と、妻のベッドでセックスをしていた。そういう「事件」をきっかけに、夫は自分でも予想外な生を生きることになる──。


 映画はおもに、作家である夫の「その後」の生活を、その「内面の表出」とともに描いている。そこには、大きな比重で、妻の親友の、同じく「遺された夫」、男女二人の子ども(小学六年と幼稚園?)が関わってくる。トラック運転手という職業のために子どもの世話を十分できない「妻の親友の夫」のために、「作家」という自由業である主人公は、ある時間、子どもを見てやることにし、その生活のなかで、自分を見つめ直す。


 さまざまな疑問が浮かんで来る。まず、この夫婦は、「愛してなかった」ということを口したり、ダイイングメッセージとして残したり(妻)するが、そうやって、口に出したり文章にしたりすれば、ほんとうに愛してなかったことになるのか? この夫婦の、「愛する」とは、どういう意味なのか? 


 映画から私が感じた範囲では、どうも恋愛的な愛、男女の愛であるような気がする。もし他者に与える人間的な愛もなかったとなると、妻は親友の家族と心を許したつきあいはできないだろうし、夫は夫で、その家族、とくに二人の子どもに親身になることはできないだろう。この夫婦は、それぞれの場面では、りっぱに他者に打ち解け、心配りができているのだから、人間としての愛がないとは言えない。そういう人間が、いくら恋愛的な愛がないとはいえ、長年いっしょに暮らした相手が、バス転落事故で、肉体に激しい損傷を受けるような死に方をしたら、思考はもっと違う方、根源的な、人間とは? という方向に行き、たとえ「愛してなかった」としても、そうした形で人生を中断されてしまった人間に対して、なんらかの同情が芽生えるのが普通ではないかと考える。人間愛の方へ行くのが普通だと思う。しかも、愛とは、愛するとは、ということは、この映画の中では、いとも簡単な感情のように扱われているが、ほんとうは、もっと複雑で微妙なものだと思う。


 映画は、そのあたりを、まったく無視して、ひたすら、妻を失った男の「再生」のみを描く。


 はあ? である。では、この妻なる女性の生とはなんだったのか? 「愛されない」ために存在したのか?


 映画では、申し分ない女性であるように見える深津絵里の、いったいどこを愛せないのか? もしかして、「家庭の事情で大学を中退し(主人公とは大学の同級生だったのだが)、次に出会った時には、美容師になっていた」女のキャリアが、今はテレビ出演などして、「先生、先生」とモテはやされる作家としての自分にふさわしくないと思ったのか。おそらくそんなことだろうということを、映画は冒頭で、多少は匂わせている。この妻の、真面目でダサい生き方が、作家にはかっこうわるく見えて、それで「愛せなかった」のかもしれない。


 妻は妻で、そんなことなどとうにわかっていて、復讐するかのように、死ぬ間際夫に、「愛してない、ひとかけらも」とメールするのだが、これは物語としては面白いかもしれないが、状況的にはとってつけたような感じがする。もし、そういうことが可能で、実際この妻が「人生最後のメッセージ」を、夫に、「愛してない」などと送ったとしたら、それは、悲しい彼女の生を表現したことにはならないか。私には、この妻は、夫を普通に愛していたと思うし、出会った時は無名でも、ついに有名作家となった夫をどこか自慢にも思っていたと思う。


 本作は、結局、心地よい映像、音楽はいいが、いったいなにを描きたかったのか、よくわからない映画となっている。人間としての魂を理解しないのなら、この監督は、今後、なにを描いても同じことになるような気がする。


 


 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。