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『たかが世界の終わり』──ウリエルの美を堪能(★★★★★) [映画レビュー]

『たかが世界の終わり』(グザヴィエ・ドラン監督、2016年、原題『JUSTE LA FIN DU MONDE/IT'S ONLY THE END OF THE WORLD』)


 


 かつて、映画評論家の淀川長治は、アメリカ滞在中、いやいや無名の監督の作品を見せられ、やがて、それは感心に変わっていった。「こいつ、映画がわかってる」──。いうまでもなく、それは、スピルバーグの『激突』であった。


 グザヴィエ・ドランの前作『マミー』には辛い点をつけた私だが、今回この作品を観て、淀川センセイと同じ言葉が口をついて出た。「こいつ、映画がわかってる」。


 説明なし、進展なし、明確な物語なし、しかし、時間だけはそこにあって、家族を演じる俳優たちは、好き勝手な言葉を投げつけ合うのみ。そして監督は、彼らの視線をとらえる。ショットは、おもに胸から上、首から上のみも多い。その中心には、美しいギャスパー・ウリエルがおり、マリオン・コティアールがいる。彼らは、まるで恋人同士のように視線を交わらせるが、完全に恋愛というわけではない。コティアールは、兄嫁であり、奥ゆかしい、思いやりも慎みもある性格である。一方、作家が職業であり、十二年ぶりに家に戻ってきたウリエルはゲイである。ウリエルは、前作『サンローラン』でもゲイを演じているが、美しい男の宿命かもしれない(笑)。


 まー、私としては、ウリエルの美しさを堪能しましたわ〜(笑)。彼の哀しみ、彼の後悔、彼の夢想、彼の躊躇、彼の孤独、彼の恐怖、そして、彼の絶望……。すべてはまなざしで演じていく。そして、展開するのは、毎度、おフランス式個人主義の罵り合い。


 ハリウッド映画を見慣れた目は、欲求不満を感じるかもしれない。しかし、これこそ、生なのだ。若きスピルバーグが、ただカーチェイスのみを描いてみせたように、ドランも「罵り合い」のみを描いて見せる。その時間。


 堪能するか、寝落ちするか、それはあなたのココロザシしだい。


 ぐにゃぐにゃの感情のもつれを、テンポのいい渇いた音楽がきれいに包んであなたに差し出す。


 ドランは無名の役者たちより、スターたちを得てドラマ作りをした方が格段に光っている。

 

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