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『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』──聖なるギリシア悲劇は星では評価できない。(★★★★★) [映画レビュー]

『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』( ヨルゴス・ランティモス監督、2017年、原題『THE KILLING OF A SACRED DEER』)

 

 確かに魅せる。ぐいぐい惹きつけられていく。惹きつけられながら、違和感が混じってくる。違和感に混じられながらも、まだまだ惹きつけられる。題名といい、展開といい、設定といい、ギリシア悲劇がもとになっているのはわかる。だから、決定的な不条理な悲劇になるのもわかっている。それを、五十歳に達して、なお美貌を保ち、しかしどこかやつれ、痩せ、しかし、相変わらずスタイル抜群のニコール・キッドマンが演じる。心臓外科医の美しく、しかも、自らも有能な眼科医で、ひとへの愛、慈悲心にも満ちている女性を、淡々と演じる。

 

 主役は、彼女ではなく、夫で心臓外科医の、コリン・ファレル。濃い男である。少し前に観た、アメリカ南北戦争の時代の、女たちだけの寄宿舎に囚われた兵士の物語『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』でも共演した二人が、わりあい似たようなトーンで見せる。似たような雰囲気が漂っているが、現代の心臓外科医のゴージャスな暮らしとは全然状況が違う。キッドマンも、先の映画では、自宅を学園に開放している学園長であった。その役も今回の役も、笑わず、陰鬱な表情をしている。

 

 本作では、ひとりの少年がからんでくる。それは、『ダンケルク』で、途中で命を落とす、うぶな雰囲気の少年役のバリー・コーガンだ。船の仕事にあこがれて、一般の客船が戦場へ向かうのに乗り込む。遠目に見ると、日本人に見える細い眼の地味顔、しかし、眼は海のように青い、「少年」であるが、実際は26歳で、16歳の役を演じている(このうまさは、『告発の行方』で、主役のリチャード・ギアを食っていた「少年」、エドワード・ノートンを思わせる)。 主役の心臓外科医は、この「少年」に対して、のっけから、特別な存在のような態度を取る。高級時計を買い与えたり、携帯の番号を教えていつでも連絡するように言ったり。「人目を忍んで」会ったりする。すぐに想像されるのは、彼の隠し子なのかな? である。やがて、この「少年」の父親の手術を、酒を飲んだ状態で行ってミスをし、死なせてしまったことがわかる。つまりは、どこかに罪を意識を感じているのである。それに、この少年はつけ込む。「ギリシア悲劇」でなかったら、そういった類のスリラーである。ファレルの二人の子ども、14歳の女の子と、10歳くらいの男の子。ふたりとも、美しい子どもであることが、ことさらそれが強調されているようにも見える。女の子の方は、家の食事に招待されたコーガンに夢中になる。やがて、二人の子どもが歩けなくなる。コーガンが、父親を、心臓外科医のミスで殺されたという恨みを抱いているのはわかるが、かといって、呪いをかけている姿が描かれるとか、そういうことない。しかし、この美しくも完璧そうに見える一家に災いをもたらしたいとは思っている。ファレルは、この少年の母親とも関係していたことが暗示される。コーガンは言う、

「あんたが死なないためには、家族の誰かを殺すんだ」

 ファレルは狂い、妻と二人の子をテープで締め上げて目隠しをし、別々のソファに離して座らせて、銃を持って自らその場でぐるぐる回って、偶然性を加味してから銃を放つ。銃は、今から思えば、猟銃であった。

 猟銃、狩り、鹿、聖なる、つまり神への犠牲として選ばれた鹿……それをおかせば、災いがある……。

 妻や子どもたちにかぶせた布袋は、どこから持ってきたのだろう? この時のためにわざわざ縫ったのか? 

 ……などという都合のよいディテールに眼がいき始めた時、この映画は破綻する。ここまで書いてきて、レビュー評価の星の数を決める。結果はごらんになった通りだが、しかし、それでもなお、星の数で評価って、なんなの?

 

 


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