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「かつてこんな歌人がいた」 [なんとなくエッセイ]

「かつてこんな歌人がいた」

 

1960年に20歳前後の大学生であったということは、その〈情況〉が心情に影を落とし、今の同じ年頃の学生からは絶対に考えられない心情に囚われていたと思われる。本なども多く読み、深く思索していた。そのなかでどうしようもない閉塞感に捉えられ、感受性のゆたかな人間は、あるいは自殺への道を辿ったかもしれない。岸上大作はそんな若者の一人だった。しかし、ほかの似たような心情に囚われた若者と違っていたのは、彼が歌人として才能を持ち、すでにすぐれた先達から評価を受け始めていたということだ。私の手元にあるこの文庫本は、昭和四十七年発行、四十八年三版のものである。吉本隆明が解説を書いていて、岸上との「わずかなふれあい」と、深い内省のなかへの取り入れを、丁寧な手つき、誠実な記述で、岸上大作という「歌人」を紹介している。

 

  そのなかで吉本は、文章をおおやけにするものの責任と覚悟について書いている。読者である若者が、その文章を過剰におのれのなかに取り込み、彼の人生の進路を変えたとして、そんなのは読者の勝手であっておれは知らないといいきれるか? というようなことを問うている。事実、岸上は吉本に接しているが、それは講演を頼みにいった「国学院大学短歌研究会」の学生としてであり、その後大学からの許可が下りずにふたたび断りにいった。たったそれだけの「関係」であるが、吉本は、むしろ、あまり気のすすまない仕事がなくなりホッとし、岸上は、吉本隆明という尊敬する人物に対して心から恐縮してしまった──。

 岸上の自殺には、さまざまな要因があろうが、その時代の〈情況〉が彼をそのような心情にしたことは確かだ。とりわけ吉本は、岸上の「貧しさ」に目を留める。それは非常に重要なことのように思う。家が貧しい学生と、家にゆとりのある学生では、この時も、いまも、その「心情」に大きな差が出てくる。これは、おそらく今も変わっていないはずだ。貧しい学生が往々にして私立大学に行かざるを得ないのは、十分に勉強に集中するだけのゆとりが、心情的にも即物的にも、与えられていないからだ。そんな出発点からして、すでに違っている学生たちが、マルクス主義などをかじり始める。そして、それは、頭の中だけで展開する「思想」となるか、現実との乖離を露呈していく「空論」となるかに、大雑把にいって枝分かれしていく──。

 嗚呼! 中国共産党は誰もマルクスなど読んでない(爆)と暴露されるのは、五十年後である。そこにはネットもあって、どんなバカでも「文章をおおやけにする」時代である。誰も、名のある著述かでさえ、自分の文章をおおやけにすることの責任なんて考えもしない。かつて、こんな時代がありましたと、思い出せるのは、ほかでもない、岸上大作の歌である。引用歌はすべて、「岸上大作小論」を書いている、吉本隆明の選んだ歌から選んだ。

 

 呼びかけにかかわりあらぬビラなべて汚れていたる私立大学

 

 (「意思表示」)

 

 美化されて長き喪の列に決別のうたひとりしてきかねばならぬ

 (「しゅったつ」)

 

 欺きてする弁解にその距離を証したる夜の雨ふらしめよ

 

 (「しゅったつ」)

 

 人恋うる思いはるけし秋の野の眉引き月の光にも似て

 

 悲しきは百姓の子よ蒸し芋もうましうましと言いて食う吾れ

 

 恋を知る日は遠からじ妹の初潮を母は吾にも云いし

 

 ひっそりと暗きほかげで夜なべする母の日も母は常のごとくに

 

 白き骨五つ六つを父と言われわれは小さき手をあわせたり

 

 (「高校時代」)

 

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