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『女と男の観覧車 』──「欲望という名の観覧車」(★★★★★) [映画レビュー]

『女と男の観覧車』( 2017年、ウディ・アレン監督、原題『WONDER WHEEL』)

 

 本作は初めっから、「お芝居」であることが、ミッキーことジャスティン・ティンバーレークのナレーターによって明かされている。そう、これは、ニューヨーク大学で演劇を学ぶ、ぼくの書いたお芝居なんだってな感じ。そして、最初に「舞台」(1950年代のさびれはじめた、コニーアイランド)に登場するのは、ヒロインの「現在の」夫の娘。イタリア人のギャングと若くして結婚してしまったために、父とは疎遠になっていた娘が、情報を警察に話してしまったために、ギャングに追われ、長い間疎遠だった父を頼って、着の身着のままで飛び込んでくる──。

 語り手のぼくは、アルバイトでビーチの監視員をやっている。ヒロイン、ケイト・ウィンスレットのジニーと、不倫をしている。「ぼく」は学生、ジニーは40歳らしいが、年を二つ三つサバを読んでいる。ジニーは、安レストランのウェイトレスで、その制服姿が、なんともオバチャンで、髪振り乱して働いて、それでも生活は苦しくて、もういいかげん現実生活にうんざりしている。連れ子は小学生ながら、放火癖がある。これが毎度、校長のおこごとだけですんでいるのが笑える。考えてみれば、すべてがおかしい。なによりおかしいのは、「まるで舞台」のようなジニーと夫のハンプティ(これって、『不思議な国のアリス』からの引用?)の「家」だ。夫が見世物小屋を改造して作ったというその家は、コニーアイランドの遊園地内(!)にあって、窓からはいつでも観覧車が見える……ぬあんて家があるわけないだろう(笑)。夫はといえば、メリーゴーラウンド乗り場まで「ご出勤」。ウィンスレットはかつては「女優」で、そのときに使った衣装やら小道具を大事に持っていて、最後にはそれらを身にまとい大々的な「お芝居」を演じてみせる……というか、「現実」がだんだんそんな感じになってしまう。映画の登場人物が現実に侵入してくるという映画は、ウディのも含めていろいろあるが、これはその逆とも言える。「現実」がしだいに「舞台」になってしまうのである。……けど、最初に言いましたように、これは、「ぼく」が書いたお芝居なんです。

 いったい今回、なにを皮肉っているのか? そんなことさえ、教養がないとわからないようになっている、難易度の高い映画となっています。遺棄された子どもたちはかわいそうにね〜、現代の問題だね〜なんて「わかりやすい」作品じゃないんです。

 テネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams)作、『欲望という名の電車』(A Streetcar named desire)が入ってないと、この映画は、おもしろさ半減なんです。ロンドン初演は、ヴィヴィアン・リー主演、ローレンス・オリヴィエ演出だった名作。しかしわが新劇では、杉村春子が演じた、ブランチ。夫がホモだったために、妹を訪ねてやってきたがそこで、若い男、ミッチ(ミッキーとそっくりの名前)に希望をかけるが、かなわず、妹のダンナにレイプされ、気が狂うヒロイン──。てな芝居。テネシーってこんな芝居ばかり書いて、歴史に残りました。それをウディが「オマージュ」&「おちょくり」。ウディの場合、オマージュとおちょくりはセットになっています(笑)。

 

 ……という映画なのかな〜?って思って、遊園地内の家の内部が、しだい「フェイドアウト」し、映し出されたウィンスレットの顔が消えていった時に思いました。当然ながら、ウィンスレットは、ヴィヴィアン・リーと杉村春子を足した名演。え? 杉村春子って誰ですか、って? それはネットで調べてくださいナ。


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