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『仮面/ペルソナ』──ベルイマンの望んだ題名は『映画』。DVD鑑賞は無効。(★★★★★(★など意味ないが(笑)) [映画レビュー]

『仮面/ペルソナ』( イングマール・ベルイマン監督、1966年、原題『PERSONA』)

 

 ベルイマンの望んだ題名は、「映画」。ギリシア悲劇からとった、「ペルソナ」は、なるほど、この映画を「わかりやすく」はしているが、本来のベルイマンの意図とは違う方向、商業映画の方へ行っている。ベルイマンが望んだものは、「劇」であり、それは、劇作家ストリンドベリの世界であり、演劇/映画の限りない「淵」である。いま、ベルイマン特集でデジタルリマスターが上映されている。美しいモノクロの世界。1966年作だから、当然カラーは存在した。しかしモノクロ。それゆえ見えてくるものがある。惜しむらくか(笑)、この映画からは、冒頭の、ゴダールをも思わせる、といっても、たぶん、「真似た」のはあちらだろうが、さまざまなイマージュの断片が挿入される、そのなかから、日本向けに、「ペニス」が削除されているが、その「分断」こそがテーマである。映画館での映画体験こそを目指した映画であるので、レンタルDVDなどで、「スジ」を追って、「仮面」をかぶって人は生きている──系の、「感想」を持つ観客などはなから排除されている。眼に焼き付くは、スラプスティック喜劇、漫画、映画のシーン、とりわけ、過ぎ越しの祭りだかの、犠牲の羊の頸動脈を切られるさいのうつろなまなざしである。そういったイマージュの断片を無視して、失語症の女優と彼女と生活を共にする看護婦(当時)の関係を云々してみても意味のないことである。

 看護婦は失語症の女優を前に、自分のことを語り続ける。その状況は、精神分析医を前にした患者である。患者であるはずの女優が、看護婦の自己を語る言葉を聞き続けることによって、セラピストになっているのである。そして、画面に映し出される俳優たちの顔の大写しは、現実ではここまで近寄れない距離であり、近寄っても顔全体を見ることは不可能な距離である。それは映画だからできることである。このように、画面が語る物語に引きずり込まれるのであって、決して薄っぺらな、「仮面」のあてこすりにではない。DVDでは、なにも観たことにならない。この(Yahoo!)レビュー欄も、DVDで観た者は無効にすべきである。

 演出家の鈴木忠志は、演劇の「一回性」ということを唱えていたが、ベルイマンは映画(当然、劇場鑑賞のみの)の一回性を意図している。




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