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意味という病? [文学]

「意味という病?」

 

柄谷行人の『意味という病』がWide版の講談社文芸文庫になって出ていたので、すでにハードカヴァー版は持っていたが、この機会に読んでみようと、読み始めると、まったく「意味がわからない」(笑)。柄谷行人の本は、かなり持っているが、どれも、そんなふうで、中断したものばかりだ。体質が合わないというか、そういう文筆家がいるのだと思う。歴史的な哲学者のなかにも。著者のせいでも、自分のせいでもないと思うが。

たとえば、本書の冒頭、

 

「『ハムレット』の中に、『芝居の目指すところは、昔も今も自然に対して、いわば鏡を向けて、正しいものは正しい姿に、愚かなものは愚かな姿のままに映しだして、生きた時代の本質をありのままに示すことだ』という有名な台詞がある。これはシェークスピア自身の藝術論と目されているが、むろん今日のリアリズムという文芸思潮とは何の関係もない。だが、これを心を虚しくして自然を視ることだといって澄ましていていいわけではない。この素朴ないい方の中には、おそらくドストエフスキーのような作家だけが匹敵しうるような凄まじい明視力がひそんでいるからである」(「マクベス論」──意味に憑かれた人間)

 

なにを言っているのか、私にはさっぱりわからないのである。昔の同人誌の仲間で、松下(菊池)千里さんという人がいて、柄谷行人を大変尊敬していた。彼女が、群像評論新人賞の優秀作に選ばれたことがあって、その際、彼女は、「柄谷行人を紹介してもらえることになったの」と喜んでいたが、その後、紹介されることはなかったようである。そのとき、彼女は、30代半ばくらいで、のち、共通の知人によれば、「40歳までに評論家として自立したい」と言っていたそうだが、それが不可能と知って、自殺した。共通の知人は、そう語っていたが、果たして、自死の原因など、はたからわかるものではない。事実は、彼女が、30代半ば(実際の享年を調べる意志は私にはないので、記憶で言っているのだが)で、自らの命を絶ってしまったことである。私には、そういう「勇気」もないが。

 

実は、彼女の評論も、何を言っているのか、私にはさっぱりわからなかったのである。

 

つまり、そういう、さっぱりわからない人たちがいる。それをわかろうと、時間をかけるのは、無駄なように思える。

 

ただ推測できるのは、彼らが、文章を書く際に、「自明のこととして前提している」場所が違うのではないかということだ。これがすんなり理解できる人々もいるからこそ、彼らはなんらかの「評価」をされているのだろう。

 

『群像』と言えば、最近、評論賞の選考委員になっている、「日本の知性」と表現されている、哲学者の熊野純彦氏の文章は、意味はわかるが、これも、どうも受け入れがたい。哲学者なのに、どうしてこうも、感傷的な、あるいは、通俗的な文章を書くのだろう、と思ってしまう。最近新しくなった、岩波文庫のベルクソンの訳者が、この熊野氏であるが、なんで、こんなおセンチ註を入れるのか?というほど、わけのわからない状態になっているので、自分としては、使えない。旧訳を参考にしつつ、自分で訳して使うしかないかなとも思っている。

 

こんな私でも、すらすら頭に入ってくる著述家もいる。それは、小林秀雄であり、河上徹太郎である。




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