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アルマーニ? [なんとなくエッセイ]

「服育」で、アルマーニなら、当然「食育」=給食は、フォアグラ、キャビア、神戸牛でお願いします。

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『ベロニカとの記憶』──インドの監督が撮る、イギリスの光と陰(★★★★★)

『ベロニカとの記憶』(リテーシュ・バトラ監督、2017年、原題『THE SENSE OF AN ENDING』)

 

 学生時代に対して、とくにノスタルジックな思い出を抱いているわけではない、老いた男に、ある日突然、法的な手紙が来て、昔同窓生だった女の母親が彼に遺品を残したという。男は、その同窓生を知っているし、昔、ちょっとつきあった女だったし、彼女の家へも、ボーイフレンドとして招待されたことがあったので、当然その母と会ったこともあって、その母が、彼になにかを遺したというのだ。はて? 男は遠い記憶を探る──。

 

 ジュリアン・バーンズの小説の冒頭はそのイメージからはじまる。そのうちのひとつに、シンクに投げ入れられた熱したフライパンがある。卵焼きができあがる寸前のフライパンが、突然水を張ったシンクに投げ入れられ、「ジュッ」という音をたてる。ささいな記憶。それは──。彼女の母親が、彼女のボーイフレンドの朝食を作ってくれていて、卵を焼いていたのだが、「あ、失敗した!」といってフライパンごとに水に突っ込んだ。大したことではないが、奇異なことである。普通、人はそんなふうにはしない。それで、記憶のどこかに残っていた。エキセントリックな母親だった。まだ若く美しかった──。その母親が遺したものは、男の友人の日記だった。その友人は自殺した。それは──。男から奪った彼女が、妊娠したからだと思っていた。男は、二人の仲を嫉妬し、「二人の子どもは呪われろ!」と手紙を書いた矢先だった。そんな手紙こそ、若者なら誰でも書く。男はごく普通の男だった。しかし、接した人々は、多少クセのある人々だ。それが、彼の記憶を形成する──。

 

 男は元カノの母の遺品である、友人の日記(どうして、そんなものを元カノの母が持っていたのだ?)を不審に思いながら、入手する手続きを取ろうとするが、その日記は、すでに、元カノが横取りし、処分してしまっていた──。なんで? 男はその元カノに会う。あいかわらず、ミステリアで冷たい。その、老いたベロニカを、シャーロット・ランプリングが演じ、まさに適役である。

 観客が想像するような関係には至らなかった二人である。「ベロニカの記憶」ではなく、「ベロニカとの記憶」。男は偶然、自殺した友人にそっくりの若い男を見かける。名前も同じエイドリアンだとわかる。なにより背が高かった、それも受け継いでいる。知的障害があるので、集団で面倒をみられていた。そこにはベロニカもいたので、てっきり、それはベロニカと友人との子どもだと思った。だが、実際は違っていた──。それは、友人の日記を所有していた人が産んだのだった。ベロニカは母親ではなく、姉だった──。

 

 英国詩に特有なキーワード、sadとsweetを、かつて植民地であった国、インドの監督が描く。的確であり、詩である。



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しばれる夜の「おひとりさま&わんディナー」 [わん太]

しばれる夜の「おひとりさま&わんディナー」。

だんご汁、牛コマとほうれん草のソテー、宮崎のロゼワイン。

おやつのお菓子の向こうの犬のおやつの皿を覗き込むわん太嬢。

 

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誰も杉村春子を知らない(笑)。 [なんとなくエッセイ]

「読売演劇大賞」が発表になった。最優秀女優の宮沢りえの舞台は何度も観たが、確かに、やる気満々は伝わってくる。しかし、小林秀雄が見たら、やはり杉村春子に対して評したように、「痩せすぎ」というかも(笑)。

 この「大賞」には、「杉村春子賞」という賞もある。しかし、「思い出す」どころか、「知らない」人たちの多い昨今ではある(笑)。

ついでながら、こちらもよろしくね↓

 

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=103861158



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『不思議なクニの憲法 2018』 [映画レビュー]

『不思議なクニの憲法 2018』(DVD、松井久子監督)

 

 ドキュメンタリー作品であり、自民党の憲法改憲案に異議をとなえることが趣旨となっている映画であるが、ありがちな既成のメディアの寄せ集めインタビュー構成ではなく、監督の意志に貫かれた「作品」となっていることが、世界レベルとなっている。

 去年発表された作品の、「2018年版」となっているが、改訂は大きく、さらに草の根的市民を盛り込んだことで、松井監督の意思表示は明確になり、作品としても深まっている。最後まで観ることによって、ひとつの大いなる形に収斂することは、感動的ですらある。

 特筆すべきは、今回加えられた、ソウル大学・日本研究所の南基生教授のインタビューである。南教授は、東アジアでもとくに安定した平和の先進国である日本を、「基地国家」と規定している。つまり、第二大戦での敗戦より続く、アメリカ支配によって安定を保っている国であり、それは、1950年の朝鮮戦争の際にも、アメリカの基地として大いに「役だった」。しかし、草の根の力が強い国でもあるので、それが安倍政権の暴走をかろうじて抑制しているとも。日本人の学者では見えない新鮮かつラディカルな視点である。

 その草の根の力を、中心に拾ったのが本作である。松井監督の祈りは、その「抑制」を持たせたいということだと思うが、果たしてがどこまでもつか。多くの人々に観てもらいたい作品であるが、今のところ、上映する館が少ない。

 とりあえず、名古屋の名演小劇場(栄)では、2月3日から16日まで上映されている。ロードショーにならんものかね(笑)。

 

http://fushigina.jp/


 


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『スリー・ビルボード』──映画と演劇は似て非なるもの(★) [映画レビュー]

『スリー・ビルボード』 (マーティン・マクドナー監督、2017年、

原題『THREE BILLBOARDS OUTSIDE EBBING, MISSOURI』)

 

 私は大学は演劇科の演出専攻で、それなりに、内外の多くの舞台を観てきたが、本作を観ているうちに、どうもこれは、なにかの舞台作品ではないだろうかと思ったが、監督は、舞台の戯曲演出の人だった。本作は、「映画の脚本」ではなく、「舞台の戯曲」だと思った。両者は、なるほど、俳優が演じるものだから、同じような感じがするが、完全にべつもので、戯曲は、舞台で生身の人間が演じるので、その肉体が物語を背負うことができるので、どうしても、刻みが粗くなる。その粗さがそのまま出てしまった作品である。

 それを、フランシス・マクドーマンド、ウディ・ハレルソンなどの名優が演じれば、傑作となり得ると、監督は思ったのか? 映画というものはそういう単純なものでもなく、実は、かぎりなく繊細なもので、それが、舞台の作品向け戯曲と相容れないのである。名優の演技、知名度はかえって邪魔になり、アメリカの地方の街で起きた悲劇すらも、とってつけたように見せていく。

 実に嫌な人間がほんとうは「いいやつ」で、その変化を、サム・ロックウェルが演じてみせるが、それさえ、浮いてしまう。なにもかもが、どこかで見たような風景で、映画が与えてくれるはずの経験の豊かさはどこにも期待できず、舞台であったなら、それなりに余韻のある結末も、実に嫌な後味を残す。

 フランシス・マクドーマンドも、ウディ・ハレルソンも、すきな俳優であり、見ることが期待される俳優であったが、本作は、彼らにとって、致命的なものになってしまったかもしれない。

 主人公の主婦マクドーマンドの娘が、たとえ「悲劇」が「必要」であっても、焼かれてレイプされるという「設定」は、そうそう安易に使われるべきでない。主婦が、捜査に遅延に業を煮やし、田舎町の空き地に、広告会社に金を払って立てて見せる、広告(ビルボード)が、警察署長の名前入りの「捜査の催促」だというのは、悲劇的なしかたで娘を失った主婦の内面としては、現実的にリアルではなく、その「演劇的作為」が、逆に映画の観客をしらけさせる。





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