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【詩】「聖金曜日、の次の日」 [詩]

「聖金曜日、の次の日」

 

世紀の横丁をゆけば

マスターベーションするように

すでに滅んだ詩を書いている人がいる

ああ、あまりにも哀しい

星の衝突

何十万年後には

宇宙はなくなるが

それはわれわれのしったことではない

きみ、どこへ帰っていくの?

ベルリンよ

周到に覆い隠された

組織の本部で

ナイティンゲールのように

古時計が泣いている

阿弥陀

蜘蛛の巣

強盗

墓の移転 そう

山下家の墓は移転されるそうだ

遠州の山奥から

どこか

町の、まいるのに都合のよい場所

都合のよいって誰が?

山下かずひでの一家だろう

それは幼い頃しか

しらない従弟で。

でも、死んだご先祖の

破片は

遠州の山の斜面の

墓地に残される

すでに

炭素よりもあいまいな

へんな物質に変わっている

母方の叔父が教えてくれた

本将棋の

コマの動きをはかるとき

すでに失われた命

に涙する

そこでは運命は

売られた家のふすまの

浮世絵のように

そしらぬ顔をしていて

人の生にかかわる気などまったくなし

こぼれていくのは

出会わなかった人々の

ためらいなりけり。

Nothing! Yes, nothing!

It's nothing!

It was nothing!

Nothing!

それで遠州の山奥の斜面の

土の下には

私であったものの一部が眠っている。

ラシーヌとボードレールの類似

をメモしておけ

村上春樹の

DNAに関するアリュージョンは

『DNA』という本のエピグラフ

に使われていた

それゆえ Book Off Online に

売ってしまった。

新品だったので

半額で売れた。

されど

村上春樹が "巡礼"という

言葉を持ち出したことに関しては

十分注意を払うべし

と、エリオットはいう

それはアサシンと結びつき

ゲームと結びつき

なにより宗教と結びつく。





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チェスラワ・クオカ(14歳の少女)@アウシュヴィッツ [歴史]

 


(FB友のUさんが、なんの説明もなくシェアされてました。見たところ、アウシュヴィッツのような収容所であることはわかりますが……。唇のあたりに傷があります。)


 


*****


 


当然モノクロであった写真を、カラー化したのは、特殊な技術を持つブラジル人アーティスト、Dr.マリナ・アマラルのおかげである。


 


この写真は、「アウシュヴィッツ・メモリアル」(アウシュヴィッツ記念館)によって、以下の内容を表す記事とともに投稿されました。それを、「感情をかき立てる」と、フランスのニュースサイト「20minutes」が、記事として取り上げていたのです。それを、作家の平野啓一郎氏が、「アウシュヴィッツで殺害された女性の写真がカラーになって感情に訴えかけるものがある」(20minutes の記事の「見出し」直訳)と、ツィートしました。それを、記事部分だけ、Uさんが「孫シェア」(?)していたのです。きっとUさんも、この写真を見て、「感情に訴えかけられた」のでしょう。


 


「私はなんで、Uさんが、20minutesの記事を?」と疑問に思いつつ、私も感情をかき立てられたので、そのサイトに行って記事を読んでみたら、ここに書いた事情がわかりました。20minutesは、Podcastをたまに聴いている、フランスのニュース・サイトです。


 


この「ニュース」には、ここに書いたように、いくつかのキーポイントがありますが、平野啓一郎氏は、正論ではあっても、だいたい、テレビのコメンテーターみたいなことしか言わない(笑)ので、ツィッターでも大したことは言っていません。


 


Uさんは、はじめ、20minutesの記事付きの、以下の写真のみシェアしてました。私が「なにも説明してない」とコメントすると、その記事まんま削除し、代わりに、上記の平野氏のツィートのみ貼ってました。


 


これだと、あまり感情をかき立てられません。私が「コメントしたため」に、Uさんは、写真を削除しました。自分も削除しようかと思いましたが、それでは、アウシュヴィッツで犠牲になった人々より、自分のメンツの方が大事ということになってしまうので、そのまま残すこととし、もう少し詳しくと、サイトに行って事情を調べ、追加しました。それが*****で挟まれた部分です。この写真は、収容所登録のため、殲滅収容所サバイバーの、ウィレム・ブラスが撮ったそうです。


 


******


 


20Minites(フランスのニュースサイト)へ行って見てきました。


この子は、少年のように髪を刈られていますが、14歳の女の子です。ポーランド人です。看守に滅多打ちにされたあとの写真だと、アウシュヴィッツの殲滅収容所の生き残った人の証言です。このあと、彼女は、心臓にフェノール(石炭酸)を注射されて殺されました。そんなことを微塵も感じさせない、なんというりりしい表情でしょう。人間の尊厳で輝いています。3月12日がその日でした。75年前のことです。生きていたら、今でも生きていることが可能な、89歳です。彼女の顔を記憶しておこうと思います。彼女の名前は、チェスラワ・クオカです。


 


 


https://www.20minutes.fr/culture/2237523-20180314-photos-colorisees-jeune-polonaise-tuee-auschwitz-provoque-emotion


 


 


 


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『新潮』(2018.4)──「あげ底作家」タカハシは、いまさら、どんなヒロヒトを描こうというのか?(★★) [Book]

 


『新潮』(2018.4)


 


 今号の目玉は、高橋源一郎の新連載「ヒロヒト」。


 冒頭の、藤井貞和の詩八行の引用から、『昭和天皇実録・第五』からの引用ぶん含めて、四百字詰め原稿用紙換算約五枚ぶん(原稿の全体は推定五十枚)、すべて引用。宮内庁編纂の『昭和天皇実録』について、「ここには実際何が起こったのかは書かれていない。あるいは、巧妙に削除・消去されている。あらゆる『公』の文が持つ宿命である」などと、まことしやかに書いている。宮内庁が編纂したものなど、いくら「実録」とはいえ、皇室に不都合なことなど書いてあるはずがない。いかにも反権力のふりをして、この「文学界ゴロ」、「あげ底作家」は書き始めるのであるが、すでに、2001年にピュリッツァー賞を受賞した、ハーバート・ビックス『昭和天皇(原題、HIROHITO And The Making of Modern Japan)』のなかで、アジア太平洋戦争へ、侵略への意志を持ち、北朝鮮のキムジョンウンのようなワル目立ちはまったくしないながら、むしろ、寡黙を押し通しつつ、そのジョンウンと同じように、専制君主となるべく教育され、「昭和天皇が統治した大アジア帝国の歳月は短かったが、その潜在力は巨大だった。彼はその膨張を主導し、(一九四五年以後政府が発表した公式推計で)二〇〇〇万人に近いアジア人、三一〇万人の日本人、六万人以上の連合国の人命を奪った戦争に国を導」き、かつ「戦争と降伏の遅延をもたらした」(ビックス『昭和天皇』)と指摘されている、昭和天皇=Hirohitoの、たとえ、生物学、民族学者、「南方熊楠の講義を三十分受けた」と記録されているとしても、彼のどんな「一面」を描こうというのだろう?


 以下、高橋の「ヒロヒト」は、どこかの資料から知ったのか、今度は引用ではなく、上記の、『実録』にある時間前後を、「再現」していく。その「歴史」とも「文学」とも、どちらとも取れない描写の想像力は、陳腐である。クマグス(熊楠)との、「実際はあり得なかった」会話も、以前のあげ底作品『恋する原発』の、作者と思しき父親と、息子の会話を彷彿とさせ、この人は、どんな会話を描いても、同じ調子になってしまうのだなという印象しかない。それは、『実録』が示す、昭和四年、1929年で、ヒロヒト(昭和天皇)二十八歳、クマグス(熊楠)六十二歳の時である。この後、昭和天皇は、アジア太平洋戦争へと突き進み、クマグス(熊楠)はその年、七十四歳で没する。


 小説はたらたら、たらたらと、ヒロヒトとクマグスの「交流」を描いているが、すでにして、「上げ底」の姿が見え、いったいなにが言いたいのか(笑)? 


 それより、関心を示すべきは、昭和天皇が、十一歳から書いていたとされる日記である。これは、いまだ、門外不出になっているようだ。お役所が編纂した『実録』などどうだっていい。これが見たいと思いませんか? あるいは、これをこそ、作家の想像力で「再現」すべきと思いませんか?


 今どき、文芸誌などまともな読者は買わず、宮内庁編纂の『実録』はおろか、ビックスの『昭和天皇』なども、誰も読んでないと思っているのか。作者や『新潮』編集部員すら、おそらく読んではいまい。読者をナメきったものだが、その読者も、物好きな私以外はいないと思われるので、ま、いっかーである(爆)。


 


 目玉二番手? 「新発掘」の川端康成と坂口安吾の「掌編」。このような作者の「掌編」が発掘されても、なんらこれらの作家の価値に変化を与えるものとも思えないし、それ以上に、関心を持つ読者もいないと思う。


 


 同じく二番手と思われる、保坂和志の短編「ハレルヤ」(推定五十八枚程度)。


 このヒトは、「師」の小島信夫と同様のスタイルをとって、日常の些事をだらだら、だらだら書いていくが、しかしそれが意味があるのは、その些事を見つめることによって、哲学的な思念がなされなければならないが、このヒトのバヤイ、つきあって読んでいくと、ただの些事のままで終わって、「え?」となる(笑)。このヒトの頭のなかを占めているのは、この小説(?)の書かれた時点なら、引っ越し先の家を、数百万年安く買えたらなー、である。そして、テーマは、愛猫「花ちゃん」で、この猫は、生まれたての頃、片目の見えない状態で拾われ、十八年と何ヶ月か生きて死んだ。「猫には一匹一匹、神さまがついている」というのが、作者夫妻の思いであるが、それなら、なぜ、年間何万匹、何十万匹の殺処分が行われるのか? これらの猫たちの神さまはどうなっているのか? 作者は、そんなことにはまったく思い至らず、ただただ、自分が保護し、育てた猫「花ちゃん」だけが問題なのである。ああ、そうですか(笑)。


 


 あと「埋めグサ対談三つ」、そのどれも、メンバーにまったく興味なしでスルー。おわり。表紙がピンクだったんで、買ってしまったんだなー(笑)。


 


 


 


 


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けふの弁当 [日常]

けふの弁当。

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わん太日記20180309 [日常]

お肉を待ってるの図。

反対側に回って、お魚を食べるの図。

「おひとりさまディナー」全体は、あり合わせよってに、写真に撮るほどのものでもないので省略。

そして、ママとわん太の「お食後」(なんだったかなー、昔の上品な小説みたいなものを読むと、こんな言葉が出てくる(笑))。

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【詩】「Gerontion (ジジイ)」 [詩]

「Gerontion (ジジイ)」

 

エリオットの詩に、「Gerontion」なる詩があることは知っていたが、それが何を意味するかは知らなかった。既成の詩集の訳者も「ゲロンチョン」というカタカナで知らん顔をしている。きっと彼もわからなかったのだ。「ゲロンチョンはゲロンチョンだ」とかなんとか……。日本人の耳には、ミョーな響き。しかし、ちょっと考えると、これはドイツ語ではないかと思えてくる。ドイツ語の辞書をみると、Gerontologie、老人学、老人医学なる言葉が見つかる。それから思いついた、エリオットの造語かもしれない。内容も、老人に関するものだし。

 

はい、わたし、乾いた月のジジイですけど、ここにいます、

ひとりの少年によって読まれながら、雨を待っています。

 

はい、私も夜の雨のなかで、あなたが、「ゲロンチョン」を読むのを聴いてました(あ、犬の散歩時ですよ)。不明瞭な言葉の中から浮かび上がってくるのは、「やさしい雨」なんだよ。

 

やさしい雨。当然、園まり。

 

で、iTune storeで、「やさしい雨、250円」を買ってしまった。台所で茶碗を洗いながらそれを聴いている。子どもの頃にすきだった歌。なぜかな? レンアイなんだけど、結局、雨のやさしさしか歌ってない。

 

あのひとのいないこのさびしさを、わかる。わたしもあめにきえたいわあ、と、きえいりそうな声で、園まりは歌っている。もうこんな、つつましやかな歌手はいない。

 

男の恋人が1915年には死んでしまったので、この詩が書かれた年、1920年あたりには、もうエリオットは抜け殻、ジジイだった。実年齢は、32歳。恋人はひとつ年下だった。

 

新しい可能性を切り開かないでは、芸術とは言えないと、ナボコフは「文学講義」で言っている。

 

はて「ゲロンチョン」はどんな世界を描いているのか? 雨を待っているひとりのジジイ。空想のなかのジジイ。すでに心だけジジイになっている、まだ若い男。

 

Old men never die ; they only fade away.

 

 

 


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【詩】「いま、そこにいるエリオット」 [詩]

「いま、そこにいるエリオット」

 

夜の犬の散歩時、i-Podでエリオットの肉声を聴いている。彼自身が読む、Prufrockや、The waste land 

常に彼の心は、二十六歳で、Dardanellesで水死したJean Verdenalのそばにある。

四月は最も残酷な月、なぜなら

記憶と欲望を、ミックスする

シェーカーで、古くて新しいカクテルをつくるように。

萎びた根っこを春の雨でステアする

ジンとベルモットを、ステアするように

さあ、最も残酷なマティーニで乾杯しようじゃないか。

エリオットはその詩のなかに、ラテン語イタリア語ドイツ語ギリシャ語フランス語を平気で入れる

あとはぶらぶらぶら……

エリオットはその詩のなかに、聖書、ダンテ、スペンサー、ボードレールなどを平気で引用する

ええと、じゃぐじゃぐじゃぐというような、

鳥の鳴き声も、誰かの詩の引用だ

いちばん影響を受けたのは、なんとか女史の、

アーサー王伝説に関する論文で、その女史は、フレイザー『金枝萹』の影響を受けているという

蛙の王女とか魚の王

ランスロット

エクスカリバー

カトリック教会はまだできていなくて、

そのしわがれた声が夜の闇に響く

おやすみトーマス、おやすみスターン、おやすみ。

 

 


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『シェイプ・オブ・ウォーター 』──「半漁人」のキャラがたってない(爆)(★★★) [映画レビュー]

『シェイプ・オブ・ウォーター』(ギレルモ・デル・トロ監督、2017年、原題『THE SHAPE OF WATER』)

 

 12年前の『パンズラビリンス』には確かに感心した。フランコ政権下のスペインで、苛酷な世界に生きる少女には、生の証としてファンタジーが必要だった。その魂の美しさをスペインという「ヨーロッパの果て」を舞台に描ききった──。

 

 しかして、12年後、またふたたびのダークなファンタジー? なるほど冷戦下のアメリカのマイノリティーたちは、生きるためにファンタジーを必要とした? しかし、本作でも「いみじくも示されている」ように、1962年のアメリカには、1944年のスペインとは違って、「チカチカブンブン」(よくは知らないが、ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』にも出てくる有名なショー歌手の歌)もあれば、しゃべる馬「ミスター・エド」もいて、冷戦時代とはいえ、けっこうにぎやかで楽しい。このあたり、メキシコ人のデル・トロ監督は、はき違えているようにも見える。

 

 したがって、『パンズラビリンス』にあった、不思議などきどき感がまったくなく、エディ・レドメインにそっくりなサリー・ホーキンスの「ひとり芝居」があるのみである。

 

 半漁人だろうと、気味悪かろうと、なんでもよいが、「アマゾンで捕獲された、神」(こういうのが、「神」なのは、ユングの研究にもあるようだから、まったくの絵空事でもないようだが)は、もーちょっとキャラがたってほしかった(爆)。だいたい監督自身がすでにして、ファンタジーなど信じていないのではないのか?

 

「人は見た目が10割」の信条を持つ(笑)私だが、その私が嫌いな風貌のマイケル・シャノンが、でかい顔晒して、「まんま」の役柄を演じて、なんか意外性がほとんどない映画であった。頭で考えれば、結構なテーマの映画なのだろうが、それはたぶん、すでに頭で考えてしまった人の感想だ。私は直観的に、以上のような感想を持った。

 


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【訳詩】T.S.エリオット『四つの四重奏曲』より [訳詩]

T.S.エリオット『四つの四重奏曲』より

 

現在の時間と過去の時間は

両方ともたぶん未来の時間の中に存在し、

そして未来の時間は過去の時間の中に含まれている。

もしすべての時間が永遠の現在なら

すべての時間は取り戻すことができない。

かつてあったかもしれないものはひとつの抽象概念かもしれない

それは永遠の可能性にとどまり

想像のなかにのみある。

かつてあったかもしれないもの、あったものは

ひとつの終焉、永遠の現在を示す。

記憶のなかの足音の響き

われわれが通らなかった通路に降り

われわれが決して開けなかった扉に向かう

ローズ・ガーデンのなかへ。私の言葉は

きみの心にこのように響く。

      しかしなんの目的で

ローズ・リーブスの鉢の上の塵をかき乱す

私は知らない。

 

****

 

From T.S. ELIOT "Four Quartets"

 

Time present and time past

Are both perhaps present in time future,

And time future contained in time past.

If all time is eternally present

All time is unredeemable.

What might have been is an abstraction

Remaining a perpetual possibility

Only in a world of speculation.

What might have been and what has been

Point to one end, which is always present.

Footfalls echo in the memory

Down the passage which we did not take

Towards the door we never opened

Into the rose-garden. My words echo

Thus, in your mind.

                              But to what purpose

Disturbing the dust on a bowl of rose-leaves

I do not know.

 


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『15時17分、パリ行き 』──映画とは「再現」である(★★★★★) [映画レビュー]

 

『15時17分、パリ行き』(クリント・イーストウッド監督、2018年、原題『THE 15:17 TO PARIS』)

 

世の中には、繊細な味覚がまったく感じられず、アミノ酸たっぷりの、スーパーで売っている半額の弁当をうまいと思って毎晩食べられるヒトもいるし、物語ばかり追って、それでなにか見たものと思い込んでいる観客もいる。本作は、そんな人々には、退屈きわまりない映画であろう。それらの人々は、映画といえば、大スターが出て、大げさな演技や演出で、なにか劇的なものを「見せてくれるもの」と思い込んでいる。そういう人々は、本作が「ドキュメンタリーに毛が生えたもの」にしか見えない。お気の毒としか言いようがない。

 イーストウッドという人は、映画とは何かということを心底理解していると思う。だから題材がなんであれ、思想がどうこういう前に、彼の「お手並み」を拝見したくなるのだ。

 本作は、アムステルダムからパリ行きに乗った、アメリカ人の観光客の青年三人が、列車内のテロ事件の犯人を拘束し、かつ銃で撃たれた男性の応急手当を必死でして、命を助け、フランス大統領からレジョンドヌール勲章をもらった実話の「再現」である。それをもとにして新しいドラマを作ったわけではない。なぜ、オリジナルなドラマを作らなかったか。それは、これが「歴史」に属するできごとだからである。「歴史小説」が事実を勝手に変えてしまっては、それは文学でもなく、歴史でもない。その批判を、大岡昇平が、井上靖の『青き狼』でしている。どこかの公営放送お得意のドラマのように、歴史的事実を勝手に変えて、江戸時代の武士や幕末の志士が、いまのサラリーマンのようでは困るのである。しかもそれは、いわゆるドキュメンタリーとは違う。事実をできるだけ、現実に即して再現する。そのさい、ただ外側から「写し取った」だけでなく、内面も含めて再現しなければならない。それでこそ、フィクションの意味がある。イーストウッドはそういうことに取り組んでいる。だから、劇的なストーリー(紋切り型が多い)を避け、淡々と、主人公たちの生い立ちから描き始める。

 しかも、今回、ちょうどよいことに、お手柄の青年たちが、絵になる青年たちだったので、それを利用した。彼らはもともと幼なじみの親友同士なので、お互いを相手に「セリフ」をいう時でもぎごちなくならない。列車内の乗客も、主要人物は、実際にそこにいた人々を集めた。事実とはいえ、もともと他人の生活など第三者には見えないのである。それを描きだしてみせるのが映画である。

 結果は、プロの役者が演じたよりも、よりリアルになって、人物たちが深い表情になっている。

 青年三人は、常々人の命を救いたいと「夢見ていた」。それは幼い日の、ヒーローへのただのあこがれだったかもしれない。しかし彼らは、その「欲望」を持ち続け、知らず知らず、テロにあった場合、咄嗟に動けるように、自分を訓練していた。これは、実は、最近科学でも明らかにされつつある、欲望と方向性選択の理論でもある。

 小学生の時は、「問題児」であった彼らが、友情を育み続け、ついに、人生の目標を達成したのである。フランスは、こういう人間たちに勲章を贈って讃える。これが日本なら、勲章など思いつかないだろう。あー、やっぱ、おフランスに行って、なにか有益なこと(芸術でもなんでも)をしたいな〜。

 


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