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『15時17分、パリ行き 』──映画とは「再現」である(★★★★★) [映画レビュー]

 

『15時17分、パリ行き』(クリント・イーストウッド監督、2018年、原題『THE 15:17 TO PARIS』)

 

世の中には、繊細な味覚がまったく感じられず、アミノ酸たっぷりの、スーパーで売っている半額の弁当をうまいと思って毎晩食べられるヒトもいるし、物語ばかり追って、それでなにか見たものと思い込んでいる観客もいる。本作は、そんな人々には、退屈きわまりない映画であろう。それらの人々は、映画といえば、大スターが出て、大げさな演技や演出で、なにか劇的なものを「見せてくれるもの」と思い込んでいる。そういう人々は、本作が「ドキュメンタリーに毛が生えたもの」にしか見えない。お気の毒としか言いようがない。

 イーストウッドという人は、映画とは何かということを心底理解していると思う。だから題材がなんであれ、思想がどうこういう前に、彼の「お手並み」を拝見したくなるのだ。

 本作は、アムステルダムからパリ行きに乗った、アメリカ人の観光客の青年三人が、列車内のテロ事件の犯人を拘束し、かつ銃で撃たれた男性の応急手当を必死でして、命を助け、フランス大統領からレジョンドヌール勲章をもらった実話の「再現」である。それをもとにして新しいドラマを作ったわけではない。なぜ、オリジナルなドラマを作らなかったか。それは、これが「歴史」に属するできごとだからである。「歴史小説」が事実を勝手に変えてしまっては、それは文学でもなく、歴史でもない。その批判を、大岡昇平が、井上靖の『青き狼』でしている。どこかの公営放送お得意のドラマのように、歴史的事実を勝手に変えて、江戸時代の武士や幕末の志士が、いまのサラリーマンのようでは困るのである。しかもそれは、いわゆるドキュメンタリーとは違う。事実をできるだけ、現実に即して再現する。そのさい、ただ外側から「写し取った」だけでなく、内面も含めて再現しなければならない。それでこそ、フィクションの意味がある。イーストウッドはそういうことに取り組んでいる。だから、劇的なストーリー(紋切り型が多い)を避け、淡々と、主人公たちの生い立ちから描き始める。

 しかも、今回、ちょうどよいことに、お手柄の青年たちが、絵になる青年たちだったので、それを利用した。彼らはもともと幼なじみの親友同士なので、お互いを相手に「セリフ」をいう時でもぎごちなくならない。列車内の乗客も、主要人物は、実際にそこにいた人々を集めた。事実とはいえ、もともと他人の生活など第三者には見えないのである。それを描きだしてみせるのが映画である。

 結果は、プロの役者が演じたよりも、よりリアルになって、人物たちが深い表情になっている。

 青年三人は、常々人の命を救いたいと「夢見ていた」。それは幼い日の、ヒーローへのただのあこがれだったかもしれない。しかし彼らは、その「欲望」を持ち続け、知らず知らず、テロにあった場合、咄嗟に動けるように、自分を訓練していた。これは、実は、最近科学でも明らかにされつつある、欲望と方向性選択の理論でもある。

 小学生の時は、「問題児」であった彼らが、友情を育み続け、ついに、人生の目標を達成したのである。フランスは、こういう人間たちに勲章を贈って讃える。これが日本なら、勲章など思いつかないだろう。あー、やっぱ、おフランスに行って、なにか有益なこと(芸術でもなんでも)をしたいな〜。

 


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