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『遠まわりして聴く』──「ブログやってる一般人」の感想です。(★★★) [Book]

『遠まわりして聴く』(和田 忠彦 著、2017年8月1日、書肆山田刊)


 


 本書でも言及されている吉田健一は、ケンブリッジ留学中、担当教授から「文学がやりたいのなら、母国へ帰りなさい」と忠告され、それで中退して帰ってきた。この教授の助言はまったく正しいと思う。


 本書の著者のように、汎イタリア(フランス、ドイツ、なんでもいいが)思想に染まっている学者の書いたものを読むたびに、その日本語力、教養の浅さにがっかりさせられる。やたらと、横文字の作家、思想家などを並べて、頭の中だけでこねくり回した抽象的な考えをだらだらと書き続ければ、それが文学的になにか価値のある論になるとでも思っているのか? 実際、こういう、学歴のある書き手は掃いて捨てるほどいる。よく出てくるのは、ベンヤミン、フーコー、ボルヘス……そして、著者はカルヴィーノの訳者でもあるので、当然、カルヴィーノ。


 本書は、月刊誌『國文学』(學燈社)に連載した文章を集めたもので、「あとがき」によれば、2004年から2007年のものである。すでに十数年が経過しており、これが、文学的に豊かなエッセイならそれも読めたかもしれないが、賞味期限切れの感なきにしもあらず。


 ほんとに、こんな本誰が買うのだろう? 私は買ってしまったが(笑)。というのも、別の本のレビューで、本書に言及し、中身を見ずに、「対談集」と書いてしまい、著者本人から「対談集ではありません」と言われ、謝罪の意味も込めて買ったのだった。届くまでは、多少楽しみにしていた。それは、いみじくも吉田健一が言う、「文学が我々を楽しませてくれる所以のものはその優雅、温み、又、こまやかということであって」(「大学の文学科の文学」『文学の楽しみ』所収、講談社学芸文庫)というようなものを期待していたのだ。多少はFacebook(カルヴィーノのファンの当方の「友だち申請」に快く承認していただいた)などで垣間見える和田氏は、誠実で温厚で飾らない人柄と思えたからだ。従って、この本も、届くまでは、★五つか四つかと思っていたが、これは……頭でっかちの外国思想かぶれの人々が書く文章と五十歩百歩だったので、かなり失望した。それでも、「お友だち」なので、★をひとつ増やしておきました(笑)。


 なにが悪いと言って、論じる対象の作品に対して、十分「読み切れて」いないのである。これはなぜかといえば、日本語の教養が不足しているのである。たとえば、私がよく知る、清水哲男の詩についてであるが、


 


  閉じられた目の上を


  凡庸な私の生涯が流れてゆきました


  詩歌の幾片かも引っ掛かっておりました


  もう頌かち合うこともない胡桃が収穫されてからは


  深夜の倉庫から


  国旗を立てられて滑り出てゆきました


  目を開けて何も見えないのでありました


  国破れてからの最後の半世紀は


  おおむねそのようでありました


 


  とさ。


 


 「最後の二文字にこめられた《情》を、さてどう受けとめたらよいのか」


 と著者は書くが、これは、《情》ではなく、清水得意の、「異化」である。それは、カルヴィーノが「新たな千年紀への文学の価値」のひとつとする、「軽さ」である。清水哲男の詩の特質は、この「軽さ」である。


 小林秀雄は、「優秀な学者ほど、方法論に囚われている」と言っている(講演集のCD)が、まさにそんな感じの、和田氏の文章である。


 


 ぬあんて(笑)。


 


 すみません、酷いことを書いて。でも本心なんです(笑)。ついでに、クンデラについていえば、日本語での翻訳の訳語を「固定」しているそうで、それを聞いたら、ちょっとがっかりしました。


 


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