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ゴダール最新作『Le Livre d'image』(「イメージの本」?)ついて──ゴダールはどんどん新しくなる [映画監督]

ゴダールの新作『Le Livre d'image』(「イメージの本」?)の予告篇、といっても、ほんのさわりにすぎないが。これは、カンヌ映画祭のコンペティション作品に招待されている。

「シノプシス」の紹介によれば、かなり長い序章と、5章のエピソードで構成されていて、その5章は、「さながら5本の指のようである」。事実、「予告篇」の序章も、一つの手、人差し指が天を差している画像で終わる。このふくよかな指は、私には、レオナルド・ダ・ヴィンチ作『受胎告知』で、マリアの受胎を告げる天使ガブリエルのひとさし指が天を差している手に思われた。夥しい言葉の引用で知られるゴダール作品であるが、「絵」(イマージュ)をも引用しているようだ。

1968年の「五月革命」の直後に作られたのが、『東風』(Le VENT D'EST)で、カンヌでは、壮年のゴダールと、童顔のトリュフォーが、68革命の労働者、学生に、「連帯する!」という表明をしている。この時、映画の中にもあるように、風は「東から吹いてきた」。

今回のカンヌ、『西風』という5分ほどの「短編」が、ゴダール作かで話題になったが、これは、ゴダールに捧げられたパロディというか「前座」であるようだ。『東風』には全然似てなくて、『軽蔑』のはじまりに似ているとニュース記事にあった。

さて、新作『Le Livre d'image』であるが、これこそ、68年の『東風』を意識して作られたものだと思われ、やはり、「革命」がテーマで、それは「68年革命」から50周年を意識して作られたと思われる。というのも、今度の「風」は、「西」から吹いていて、それゆえ、例のパロディも当を得ているわけで、それは、架空の首長国の、架空の革命、油田に関する物語であるようだ。

作風は、『東風』とは大きく変わって、デジタル文字列が現れたり消えたりが、情動的な音楽とともに示され、それらは、赤と青、とりわけ印象的な青に染められる。その青は、ゴダール・ブルーと言ってもいい、独特な、内から輝くようなミッドナイトブルーを含んだような青である。

これだけではなにも言えないが、すくなくとも、もったりと、革命に関するテキストが朗読されていく、森の中のピクニックといった感じの『東風』と比べると、隔世の感がある。ゴダールは、その時代とかなり密着して作品を作るので、過去の作品は、陳腐に見えるものがある。ゆえに、新作は、まったく新しい感じがした。

 

http://www.allocine.fr/article/fichearticle_gen_carticle=18672648.html

 

 

http://www.lemonde.fr/m-actu-chroniques/article/2018/05/10/il-est-comme-ca-jean-luc-godard_5297212_4573473.html


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スーパーシニア、Miyuki [日常]

スーパー・シニア、Miyuki (87歳)

介護大賞(というものがあるんです)授賞。

水彩画家への道邁進中。

今年は「春陽展」の名古屋会場が、豊川市になったので、わりあい近くなので、娘小林貴子の車で、会場にやってきたMiyukiは、入選の娘の絵を鑑賞中。その前に、時間があったので、マックでお茶した。ひさしぶりに、介護と内職(大葉束ね)から解放され、気晴らし。おっほっほ〜。B型(爆)。1930年生まれ、同年生まれに、ゴダールがいる(どーゆーカンケイが?)。履いてるスニーカーは、ナイキ・ペガサス33!

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『君の名前で僕を呼んで 』(2回目鑑賞)──オリジナルと反復 [映画レビュー]

『君の名前で僕を呼んで』(ルカ・グァダニーノ監督、2017年、原題『CALL ME BY YOUR NAME』(2回目鑑賞)

 

前回観た劇場は画面が暗く、せっかく人工のライティングを導入せず、北イタリアの光と影を撮っているのに、不全感があったし、細部をじっくり確かめてみたい気持ちもあって、もう一度、べつの劇場で観た。

 

古代ギリシアの彫像というのは、それ以前のメソポタミアやエジプトの彫像と違って、王族や書記官などの、正面を向いたぼってりとした動きのない像と違って、ミロのヴィーナスに代表される、動きのある、八頭身の、人間的なものになっている。これは、制作当時から現代まで伝わったわけではなく、ヨーロッパにおける、「ルネッサンス」によって、「発見」された。そして、この「美の基準」こそが、近代まで連綿と伝わるヨーロッパ美術の美である。

 

本作の「教授」は、その、ギリシアから伝わる美術を研究している……ように見える。ギリシアから、ローマへと伝わり、ルネッサンスを通じて、その形がコピーされた──。本作の「湖」の底から発見されるのは、19世紀にある貴族が愛人に送った、ヴィーナスの「コピー」の銅像だった──。

 

「ミロのヴィーナス」オリジナルも、発見されたのは、19世紀である。

 

ここに、この映画の、オリジナルと変奏の、隠された主題がある。現に、主人公の少年エリオは、バッハの曲を、編曲している。しかし、その編曲は、「リスト風」などと、中間項を入れ、同時にリストをも「コピー」している。

 

当然、毎夏の習慣として、「教授」の父が受け入れた大学院生、アメリカ人のオリヴァーは、ギリシア的美の基準を満たした男である。車から降りたオリヴァーを、自室の窓から見たエリオは、一目で恋をする。それから、全編、エリオよりの視点でとらえられた「恋物語」で貫かれる。それは、男女を問わず、恋するもののすべての行動である。

 

本作は、ティモシー・シャラメという、フランス人の父と、ユダヤ系アメリカ人の母との間に、ニューヨークで生まれた、ある意味、現代哲学を肉化したような俳優と、アーミー・ハマーという、まさにギリシア彫刻そのままの肉体(ギリシア彫刻は、顔は個人の顔を持っていない)と、アラン・ドロンのような、まれにみる美貌、しかも、ドロンに知性を付け加えたような(笑)繊細な表情をも表現できる俳優が、1980年代の北イタリアの豊かな自然、樹木や湖や草原や古い建物のなかで、ふれあい、ふざけあい、からみあう。カメラは彼等の肉体と表情を様々な角度から捉え、しかも、ひとつのシーンが俗な物語へと変化する寸前に切り替えられ、次のシーンに移る。

 

まるで古代ギリシアの彫刻のように男性の美しさを強調したこの映画で、女性陣は旗色が悪い。とくに、エリオの、二人の、「フランス語を話す」女友だち、マルシアとキアラ。この二人の女性も、ギリシア彫刻を体現したようなオリヴァーの出現を当初から眺め、見守り、翻弄される。彼女たちにとっては、失恋の痛みを知る夏であるが、キアラは、オリヴァーと衆目のなかで熱いダンスを踊り、キスをし、まるで恋人同士のように振る舞われるが、それはオリヴァーの、軽いノリのひとつであった。一方マルシアは、エリオと、ほとんど恋人のつきあいをすることになるが、エリオがオリヴァーとの恋にのめり込んでいくに従って冷たくされる。そして、「ほんとうの恋人」ではないことを知る。しかし、彼女は、エリオがオリヴァーとの数日間の愛の旅行(理解のあるエリオの両親の粋なはからい)ののち、帰国する彼と本格的に別れて帰ってきた時、(耐えられず迎えに来てもらった)母親の車で、彼の住む町に帰ってきた時、母親が車を停め、カフェに入っていったのを待っている彼に近寄って来る。エリオは車から出て彼女にちゃんと向かい合う。マルシアは、「恋人同士」として振る舞われていた時、彼から詩集をプレゼントされたが、その詩集を読んで心に響いたことを伝える。そして、二人は、「永遠の(Pour la vie)」友だちの誓いの握手をする──。

 

映画は、そこでは終わらず、さらなる月日の経過を見せ、舞台となった地に、雪が降り積もる。クリスマスの時、それはユダヤのハヌカーとも重なるが、一家は、父親がユダヤ系とはいうものの、それほど、宗教的に重きを置いているわけではないが、「オリジナル」をも大切にしている。だから一家のお祝いは、カトリックであろう、イタリア人使用人もいるので、二つが重なったようなものになる。エリオの家では、ディナーのテーブルが整えられつつある。そこへ、アメリカのオリヴァーから電話がかかってくる。目的は、彼の婚約の知らせ。両親は適当に彼を祝福し、すぐにエリオとオリヴァーを「二人にする」。二人は、離ればなれの恋人同士の会話、「逢いたい」を伝え合い、初めて愛を交わした日に、オリヴァーが提案した、「自分の名前で相手」を呼び合い、愛を確かめる。そして……

映画はまだ終わらず(笑)、暖炉の前に、家族には背を向けて座るエリオの顔を映し出す。彼の背後では、テーブルセッティングが進行中なのが、ぼんやりと映し出されている──。カトラリーの金属音、ざわざわという家族たちの声、そして一度は、「エリオ」と呼ばれる。しかしエリオは反応せず、暖炉の前に座り続ける。暖炉の炎がエリオの顔に映り、パチパチと薪の燃える音がする。カメラは、長い長い間、エリオの表情をとらえる。実際は22歳のティモシー・シャラメという俳優はそれに耐え、17歳の少年の、「悲しみよこんにちは(Bonjour Tristesse)」を演じ続ける。映画はやっと、フェイド・アウトしていく。闇。エンドクレジット。オープニングと同種の「背景」。すなわち、古代ギリシア美術の彫像の写真を置いただけのもの。それに、落書きのようにクレヨンの筆跡で、「Call me by your name」。それは、17歳の少年のひと夏の「グラフィティ」に似合っている。映画はこのタイトルバックで、二人の男性の恋に、現代的な軽さを与えている。

 

 

 


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スキレットで焼き豚 [料理]

はやりのスキレットで、焼き豚をつくりました。栗原はるみセンセイのレシピです。写真は豚肩ロース200グラムぐらい。蓋は必須。

 

 

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『サバービコン 仮面を被った街 』──面白いのか面白くないのか、わからない(笑)(★★★)

『サバービコン 仮面を被った街』(ジョージ・クルーニー監督、2017年、原題『SUBURBICON』)

 

 この映画、面白いのか面白くないのか、わからない(笑)。ていねいな作り、ブラックユーモア、少年役の子どもの利発そうな表情、マット・デイモンの太ったオッサンぶり、差別を強調することにより逆説的にその差別を批判する、ウディ・アレン流とも通ずる自虐的な笑い、近頃悪役が板に付いてきた、ジュリアン・ムーアの余裕の演技……などなど、どこをとっても悪いところはない。

 しかし、本作、1980年代から温められていたというから、温めすぎではないのか? つまり、今のアメリカは、もう、ギャグなのか本気なのか、わからないところまで行ってしまっている。だから「今さら」こうしたものを出されても、そこに、たとえば、『ペンタゴン・ペーパー』のような、今の時代と切り結ぶものがないと、それは、ただの「レトロ」となってしまう。

 

 監督のジョージ・クルーニーは、大統領立候補の意志もあるというウワサを目にしたが、マジか? それとも、本作の次にもどんどん映画を監督していき、クリント・イーストウッドのような名匠を目指すのか? いずれしろ、できは悪くないながら、寝落ちし(笑)、レビューもやる気がでない、こんな作品から言えることは、クルーニーは、映画を本気で愛していないのではないだろうか?





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子曰わく、 [哲学]

七十而従心所欲、不踰矩、(七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。)(孔子の自伝だから気にしないように→ジジイの方々)(訳:好き勝手やっても人間の法則は越えない境地に達したゼ)


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『君の名前で僕を呼んで』分析 [映画分析]

『君の名前で僕を呼んで』分析。

 

 

映画というのは、実は映画館に俳優を見にいくんですね。もちろん、その俳優とて生身の人間だから、実生活は、フツーの人と変わりがあるはずがない。しかし俳優という職業は、訓練によって肉体を作り、また演技術もマスターします。そしてそのうえで、その人の生活史も透けて見える。そういう意味で、アメリカの俳優は実によく訓練されている。演技術のもとになっているのは、いろいろな「メソッド」があるなかで、ロシアのスタニスラフスキーという演出家が構築した、「スタニスラフスキー・システム」ではないかと思う。これは、実際に、自分の肉体を、演じる人物にまで、内面ともどももっていく。私も、少しは訓練の入り口を大学で学んだが、自己暗示によって、存在しないコップを握りしめている「つもりに」なるまで気持ちを持っていくと、実際、手の形もそのようになっているといもの。簡単にいえば、「なりきり」。それをいつでもできるようにする。

『君の名前で僕を呼んで』ででは、31歳ぐらいのアーミー・ハマー(現実は愛妻家の真面目な二児の父(笑))が、24歳の大学院生を演じている。体もだいぶウェイトを落としていると思う。相手役の、ティモシー・シャラメーも、実際には、22歳の成人で、17歳の役をやるためには、だいぶ脂肪を落としていると見た。そして、彼らが、いかにも現実に、上流階級の多感な少年や、教養豊かで魅力的な大学院生がそこに存在しているかに見えたとしたら、それは彼らの演技術が洗練されていることの証左なのだ。

とくに、アーミー・ハマーの「美」と、自然な動きは、すばらしいものであったと思う。彼は事実、美術館を所有する一族の子息だと聞いた。そういう育ちのよさも出ているのだろう。

この映画の魅力は、今から35年まえの北イタリアの保養地で、しばらしい太陽、自然、などが溶けているなかで、ある感情的なやりとりがあり、また、古代ギリシア、ローマ美術などの文化にも言及され、実際の発掘(地中海の中から)の様子などが、まるで空気のように、主人公たちの生活に入り込んでいる。少年の両親は教養があり、別荘だか邸宅には果樹園があり、桃や杏がたわわに実っている──。こうした生活が現実にあり得たかどうかはわからない。ただ、われわれ観客は、そうした生活を疑似体験する。そこに、ある種のあこがれを抱く。映画にはそういう魅力がある。

一方、Yahoo!などの映画サイトがあり、そこでは、星の個数で評価することが慣習としてある。それは、ただの、未見の客が映画を選ぶ際の、目安としてのサービスである。レビューを書く習慣があると、ついつい星をつけてしまう。しかし、この星は、気分しだいでどうになる(笑)。

なにも絶対的なことなどない。映画は山ほどあり、好きなのを見て、楽しめばいいのである。あとで評価が高くなるのもあるし、下がるのもある。そういうエンターテインメントなのだ。

なにをどう見て、どう評価して、どう言おうと自由なのだ。

カレーライスのすきな人が、お寿司を食べないからと言って、文句をいうのはスジ違いだ。

 


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【詩】「記憶の朽ちた船を探して、あるいは、成熟こそがすべてだ」 [詩]

「記憶の朽ちた船を探して、あるいは、成熟こそがすべてだ」


 


私はいまだ登録されてない星が宇宙の奥底で燃え尽き、愛を排出したのを見た。本質などというものは存在せず、そのつどの偶然の関係によって咲く花をよく見ると、それはただの炎にすぎず、さあ、行こうよ! だめだ。なぜ? ぼくたち、ゴドーを待たなければ。あ、そうだった。といって、動こうとしないブラックホールにさも似て、輻射と書いているだけでしあわせを感じる。25世紀ともなれば、ポセイドンは、どんな魚に称号を与えようかと思案していて、金の羊のことなどまるで頭にない。ウェリギリウスはキリスト以前に生まれたので、地獄へ堕ちることも天国へ行くこともできず、ただ、素粒子の数を数えるしかない。それも対になっている非存在としての。
*O quanto è corto il dire, e come fico al mio concetto! (私が言おうとしていることに比べて、言葉は何と貧弱なものでしかないのだろう。)


 


* ダンテ『神曲』、「天国篇」第三十三歌より、TS・エリオットが引用し英訳したものを、吉田健一が和訳したもの。『エリオット全集4』「ダンテ」中央公論社、所収)




 


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Thank you mom ! [日常]

Thank you mom !

 

母の日に、薔薇の花束送ろうとしたら、「安いのでいいよ〜」と言ったので、Amazonでカーネーションの鉢とどら焼きのセットを予約しました。いまだに教えられることの多いりっぱな母を持って幸せ。

 

うちの三人兄弟(私、妹、弟)は仲がよくて、父母の愛のおかげで晩年しあわせなんだ。今は弟が実家のご飯作りをしている。母は父の介護と内職をして、お小遣いもくれる(笑)。一生懸命働いたので、悠々自適の老後。

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新緑、薫風@ベランダ [日常]

    

 

     新緑の中や吾子の歯まったく目立たない

 

            (写真は、ベランダからの眺め)

 

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