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【詩】「ボードレールの場合は」 [詩]

ボードレールの場合は、あまりにも

進んでいすぎた。ボードレールの場合は、散文の方がすぐれてる。

1789年のパリの夜に燃えた革命ひとつ〜、10年間は続いたあ〜。

エクリチュールが革命。同じ星のもとに生まれた……

ドストエフスキー〜♪

ボードレールの場合は、T.S.エリオットが評価してる、

ほかのフランス詩人たちは、「流派」によって分けられる、

十把一絡げの古典派、象徴派あ〜〜♪

だけど、イギリスの詩人たちはひとりひとり、

流派はない。そこがおフランスと違うところ。

ばかのひとつ覚えみたいなランボーお〜♪

エリオットはまったく問題にしてない。

パリのバリケードのことは、ドストエフスキーの

『カラマーゾフの兄弟』にも出てくる〜♪

お・な・い・ど〜し〜。

ボードレール=ドスエフスキー

「革命のエクリチュール」

評論かこ〜♪



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【詩】「仁義なき戦い」 [詩]

「仁義なき戦い」

 

でんちゃん*が「デンソー」もとい「センソー」だけはしたくないと書いていたので、自分は反対の考えを持ち出して、このような題名の詩を書こうとしているのだが……。

そう、あれは広島。すでにセンソーの傷跡十分なところにもってきて、ヤクザがどんぱちハジめおった。広島って牡蠣のほかに、ヤクザも名物なの? ええと、あのヒト、意外に早く鬼籍に入ってしまわれた……そう、菅原文太……なんか出ていたんでしょ? え? まだお亡くなりになってない? 岡本喜八監督じゃなくて、あれあのヒト、深作欣二監督、意外やご本人は繊細な雰囲気の風貌で。

復員した男がきっぷと度胸を買われて組へ……。センソーしてきたのに、またセンソーするためにヤクザになったんですけど。この原作、モノホンヤクザの手記だって。コワすぎる。

しかも出演者が、

菅原文太

松方弘樹

田中邦衛

渡瀬恒彦

伊吹五郎

金子信夫

川地民雄

内田朝雄

川谷拓三

梅宮辰夫

だなんて、コワすぎるもいいとこじゃん。

こういう映画、私は見ません。

私の故郷、豊橋にもヤクザはいました。

夜店なんかに出没していました。

愛知県は宝飯郡一宮町の、

母の故郷の砥鹿神社の祭りにも

ヤクザはいました。

露店商とヤクザは必ずしも

重なってないので、差別的になったら

すみません。

でも、「ヤクザ」って言葉は差別語なのか?

ヤクザでもないのにヤクザって言ったらいけないよね。

その昔は、侠客とも言ってました。

一本刀土俵入りや、清水の次郎長です。

あ、そういや、うちの祖先も、

森の石松の、遠州は森町近く(ほんとうはもっと奥)

の出身なんで、まー、ヤクザには妙な親しみが

あるんですかね。

そういや、ガッツ石松、あのヒトって、

仙台の方の出身ですか?

姪御さんがうちの従弟と結婚した

(マジで)んで、実は親戚なんです(爆)。

……つーか、なにやら、世界は

プーチンにやられてしまうようです。

 

 

(註:*でんちゃん──詩人細田傳造氏)

 

 

 


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暴雨!雷! [日常]

すんごい。これまでにない爆音のような雷と暴雨!雨で視界が閉ざされている!@福岡(12:33pm)

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『焼肉ドラゴン 』──根岸季衣贊江+★(★★) [映画レビュー]

『焼肉ドラゴン』(2018年、鄭義信監督)

 

 本作の監督は、脚本で賞を取ったというが、脚本がひどいと思った。1970年前後、大阪万博で湧く大阪の片隅の「国有地」らしき場所に、トタン屋根のバラック群。その奥に、「焼き肉ドラゴン」と呼ばれる店。集まっているのは、常連らしき三、四人で、とても生計をたてていけるだけの儲けがあるようには見えない。見れば、店主の夫婦には三人の娘と一人の息子、計六人は「家族」である。娘たちがかかわる男たちも入れたら、「いちげんさん」はとても入れないお店。ホルモン屋の内実が描かれるわけでなく、語り手である末っ子の男の子は、有名私立校で韓国人であることをもとに苛められるが、イジメも型どおりなら反応も型どおり。ナレーターなので、なにか生き抜く知恵でも見せてくれるのかと思えば、あっさり途中で自殺してしまう。再婚同士の韓国人の夫婦は、戦争の時の辛さを言葉で語って終わり。

 庶民の力を見せてくれるわけではなく、映画の中心は、三人の娘の「濡れ場」(爆)。とくに、次女、井上真央の、「直輸入」(韓国から来たばかり)の若い男が、仕事で失敗したと店で泣いているところに居合わせて、彼に同情と、おそらく魅力も感じてだろうが、いきなりキスしてしまって、このキスシーンが、けっこう長く(爆)、映画のテーマを違う方向に持っていきそうになる。

 長女真木よう子への思いが忘れられない、次女のダンナの大泉洋も、しつこい。キスシーンこそないが、しつように求愛し、二人で北朝鮮へ「帰る」ことになる。次女は次女で、その韓国の若い男とくっついて韓国へ行くことになる。

「醤油屋のサトウさん(このあたり、舞台ではシャレが効いて笑いがとれたのだろうが)から買った土地だったはずが、国に返還を求められ、夫婦も家財道具をリヤカーに積んで、日本のどこかへ引っ越していく。家族みんながそれぞれ抱擁(この動作にも、欧米の習慣を思わせるような違和感を禁じ得なかったが)を交わしあい、ちりぢりになっていく。

「ちりじりになってもおれたちは家族だ」てなことを、一家の父親が言い、残された夫婦は、桜が落ちてくるのを鑑賞しながら(爆)、「さあ行きましょうか」てなことを言う。『桜の園』のラネーフスカヤ夫人か(爆)。

 はいはいはい……さぞかし舞台ではカンドー的だったんでしょーねー。なんか、『万引き家族』を酷評してしまった私であるが、この映画を観ると、いかに『万引き家族』がこなれていたかがわかる。

 あ、そうそう。本レビューの題名は、「根岸季衣贊江」であった。ほんのちょっとだけ、ハデな着物を着た厚化粧のオバチャンが日傘に身を隠しながら、このホルモン屋を見に来る。それは、三女が不倫しているキャバレーの司会者の妻で、キャバレーの歌手だった。ほんのちょっとだけ、「まっかにも〜えた〜♪」と歌うシーンあり。この女に関して、もっとおもしろいエピソードがあるのだろうかと期待したが、それだけだった。しかしこの根岸季衣の存在だけが、本作には決定的に欠けている、つかこうへいの根性を思い出せてくれた(合掌)。

 

 


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【詩】「志賀直哉の『些事』を読んで」 [詩]

「志賀直哉の『些事』を読んで」

 

志賀直哉の「些事」という短編は、400字詰め原稿用紙15枚ほどで、妻に隠れて女に逢いにいく様子を、心情、行程、事情、風景描写などを、すべてごちゃまぜに、ほぼ時系列に添って描いた作品で、相手の女を、女と書いたり、お清と書いたり、友人知人も、Tという人もいれば、アルファベットの頭文字も差し障りがあるのか、○○と書いたり、「主人公」も、彼と書いたりしている。これが白樺派の特徴ではあるが。

自分は(って、私、山下のことですが(笑))ある人にメールを書いていて、題名に、「些事」なる言葉を思いつき、すぐに志賀直哉のことを思った。むしろ自分のなかでは、「些事」=志賀直哉だった。メールを送ったあと、すぐに「志賀直哉小説選」全四巻を調べ、「些事」を探した。それは第二巻にあった。前に一度読んだのか読んでないのかはわからないが、「些事」という題名は今書いてきたとおり、覚えていた。いずれ短い作品なのですぐ読める。果たして、「些事」=「不倫の顛末」であった。「彼」は奈良に住んでいるのか、京都の銀行に用事で行くと家には言い、京都に出るのが、相手の女はどこにいるのか。ひいきにしている京都の料亭のようなところへ行き、その女について話し、友人の消息なども話し、友人と途中で会って、奈良へ戻ることとし、列車を降りて猿沢の池の方へ歩いていくと、向こうから、男女三人が歩いてきて、そのなかの女が、意中の女であったが、列車のなかで老人(たって60歳前(笑))と若い女(20代)の夫婦を見て、老人の妻の若い女の大柄なところが自分の女に似ているなと思ったりするのだが、老人の妻の方はなんの情緒もないような女に感じる。多少陰影を感じる自分の女に猿沢の池付近で出くわすが、その時女はひどく醜く見え、「彼」は、おのれのイリュージョンと別れを告げる──そんな小説だ。

作者は「彼」と引き離しつつも、「彼」は「語り手」にかぎりなく近づいていく。それは今日の純文学作家が、「作者」=「私」と書き出すより、はるかに、それを書いている主体に近づいていく。果たして、志賀直哉の細君はこの作品を読むのだろうか。自分(山下)だったら、こんな作品はよう書けへんワ(笑)。

ところで、私がこの「些事」を読む寸前まで読んでいたのは、Gilles Deleuze『Logique du Sens』である。それは、Lewis Carrollの『Alice』について書かれた本である。そのなかに、propositionなる言葉がしきりに出てくるが、これは日本語で、命題。直哉は、

落ちていく、落ちていく──

いったいどこまで?

眠りと半覚醒の間の

最高の快楽

をむさぼりつつ

ロジックの迷宮

コンペイトー

自分のいちばんすきなものを発見せよ。


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『女と男の観覧車 』──「欲望という名の観覧車」(★★★★★) [映画レビュー]

『女と男の観覧車』( 2017年、ウディ・アレン監督、原題『WONDER WHEEL』)

 

 本作は初めっから、「お芝居」であることが、ミッキーことジャスティン・ティンバーレークのナレーターによって明かされている。そう、これは、ニューヨーク大学で演劇を学ぶ、ぼくの書いたお芝居なんだってな感じ。そして、最初に「舞台」(1950年代のさびれはじめた、コニーアイランド)に登場するのは、ヒロインの「現在の」夫の娘。イタリア人のギャングと若くして結婚してしまったために、父とは疎遠になっていた娘が、情報を警察に話してしまったために、ギャングに追われ、長い間疎遠だった父を頼って、着の身着のままで飛び込んでくる──。

 語り手のぼくは、アルバイトでビーチの監視員をやっている。ヒロイン、ケイト・ウィンスレットのジニーと、不倫をしている。「ぼく」は学生、ジニーは40歳らしいが、年を二つ三つサバを読んでいる。ジニーは、安レストランのウェイトレスで、その制服姿が、なんともオバチャンで、髪振り乱して働いて、それでも生活は苦しくて、もういいかげん現実生活にうんざりしている。連れ子は小学生ながら、放火癖がある。これが毎度、校長のおこごとだけですんでいるのが笑える。考えてみれば、すべてがおかしい。なによりおかしいのは、「まるで舞台」のようなジニーと夫のハンプティ(これって、『不思議な国のアリス』からの引用?)の「家」だ。夫が見世物小屋を改造して作ったというその家は、コニーアイランドの遊園地内(!)にあって、窓からはいつでも観覧車が見える……ぬあんて家があるわけないだろう(笑)。夫はといえば、メリーゴーラウンド乗り場まで「ご出勤」。ウィンスレットはかつては「女優」で、そのときに使った衣装やら小道具を大事に持っていて、最後にはそれらを身にまとい大々的な「お芝居」を演じてみせる……というか、「現実」がだんだんそんな感じになってしまう。映画の登場人物が現実に侵入してくるという映画は、ウディのも含めていろいろあるが、これはその逆とも言える。「現実」がしだいに「舞台」になってしまうのである。……けど、最初に言いましたように、これは、「ぼく」が書いたお芝居なんです。

 いったい今回、なにを皮肉っているのか? そんなことさえ、教養がないとわからないようになっている、難易度の高い映画となっています。遺棄された子どもたちはかわいそうにね〜、現代の問題だね〜なんて「わかりやすい」作品じゃないんです。

 テネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams)作、『欲望という名の電車』(A Streetcar named desire)が入ってないと、この映画は、おもしろさ半減なんです。ロンドン初演は、ヴィヴィアン・リー主演、ローレンス・オリヴィエ演出だった名作。しかしわが新劇では、杉村春子が演じた、ブランチ。夫がホモだったために、妹を訪ねてやってきたがそこで、若い男、ミッチ(ミッキーとそっくりの名前)に希望をかけるが、かなわず、妹のダンナにレイプされ、気が狂うヒロイン──。てな芝居。テネシーってこんな芝居ばかり書いて、歴史に残りました。それをウディが「オマージュ」&「おちょくり」。ウディの場合、オマージュとおちょくりはセットになっています(笑)。

 

 ……という映画なのかな〜?って思って、遊園地内の家の内部が、しだい「フェイドアウト」し、映し出されたウィンスレットの顔が消えていった時に思いました。当然ながら、ウィンスレットは、ヴィヴィアン・リーと杉村春子を足した名演。え? 杉村春子って誰ですか、って? それはネットで調べてくださいナ。


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【詩】「晴天のグリッド」 [詩]

「晴天のグリッド」

 

少女のすきなもの

秘数3

解読のコード

デザインと写真

深き

精神分析的内容

論理的形式主義

模範的言語学

いまの楽しみの向こう側の

なにか他のものである快楽

意味と無意味のゲーム

カオスの宇宙

でもそれは言語と無意識の

結婚式

すでに結ばれ祝われて

ある でもさらに

結ばれ祝われる

クロスワードパズルの

空欄

たれ!

 


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「かつてこんな歌人がいた」 [なんとなくエッセイ]

「かつてこんな歌人がいた」

 

1960年に20歳前後の大学生であったということは、その〈情況〉が心情に影を落とし、今の同じ年頃の学生からは絶対に考えられない心情に囚われていたと思われる。本なども多く読み、深く思索していた。そのなかでどうしようもない閉塞感に捉えられ、感受性のゆたかな人間は、あるいは自殺への道を辿ったかもしれない。岸上大作はそんな若者の一人だった。しかし、ほかの似たような心情に囚われた若者と違っていたのは、彼が歌人として才能を持ち、すでにすぐれた先達から評価を受け始めていたということだ。私の手元にあるこの文庫本は、昭和四十七年発行、四十八年三版のものである。吉本隆明が解説を書いていて、岸上との「わずかなふれあい」と、深い内省のなかへの取り入れを、丁寧な手つき、誠実な記述で、岸上大作という「歌人」を紹介している。

 

  そのなかで吉本は、文章をおおやけにするものの責任と覚悟について書いている。読者である若者が、その文章を過剰におのれのなかに取り込み、彼の人生の進路を変えたとして、そんなのは読者の勝手であっておれは知らないといいきれるか? というようなことを問うている。事実、岸上は吉本に接しているが、それは講演を頼みにいった「国学院大学短歌研究会」の学生としてであり、その後大学からの許可が下りずにふたたび断りにいった。たったそれだけの「関係」であるが、吉本は、むしろ、あまり気のすすまない仕事がなくなりホッとし、岸上は、吉本隆明という尊敬する人物に対して心から恐縮してしまった──。

 岸上の自殺には、さまざまな要因があろうが、その時代の〈情況〉が彼をそのような心情にしたことは確かだ。とりわけ吉本は、岸上の「貧しさ」に目を留める。それは非常に重要なことのように思う。家が貧しい学生と、家にゆとりのある学生では、この時も、いまも、その「心情」に大きな差が出てくる。これは、おそらく今も変わっていないはずだ。貧しい学生が往々にして私立大学に行かざるを得ないのは、十分に勉強に集中するだけのゆとりが、心情的にも即物的にも、与えられていないからだ。そんな出発点からして、すでに違っている学生たちが、マルクス主義などをかじり始める。そして、それは、頭の中だけで展開する「思想」となるか、現実との乖離を露呈していく「空論」となるかに、大雑把にいって枝分かれしていく──。

 嗚呼! 中国共産党は誰もマルクスなど読んでない(爆)と暴露されるのは、五十年後である。そこにはネットもあって、どんなバカでも「文章をおおやけにする」時代である。誰も、名のある著述かでさえ、自分の文章をおおやけにすることの責任なんて考えもしない。かつて、こんな時代がありましたと、思い出せるのは、ほかでもない、岸上大作の歌である。引用歌はすべて、「岸上大作小論」を書いている、吉本隆明の選んだ歌から選んだ。

 

 呼びかけにかかわりあらぬビラなべて汚れていたる私立大学

 

 (「意思表示」)

 

 美化されて長き喪の列に決別のうたひとりしてきかねばならぬ

 (「しゅったつ」)

 

 欺きてする弁解にその距離を証したる夜の雨ふらしめよ

 

 (「しゅったつ」)

 

 人恋うる思いはるけし秋の野の眉引き月の光にも似て

 

 悲しきは百姓の子よ蒸し芋もうましうましと言いて食う吾れ

 

 恋を知る日は遠からじ妹の初潮を母は吾にも云いし

 

 ひっそりと暗きほかげで夜なべする母の日も母は常のごとくに

 

 白き骨五つ六つを父と言われわれは小さき手をあわせたり

 

 (「高校時代」)

 

ishihyoji.jpg

 


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地震情報@20180618 [日常]

愛知県豊橋市の実家の2階で寝ていたが、かなり揺れた。その前に大雨も降った。本日福岡へ戻る予定だったが、新幹線「払い戻し可」のメールが来たので、明日に変更した。震源近くの方々ひき続き警戒を!

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【詩】「ラストタンゴ」 [詩]

「ラストタンゴ」

 

宇宙の底深く、なにかの脱け殻

宇宙は、重力の微差ではじまったというが

そもそもはじまりとはなんなのか? あえて

死者たちに問わねばならない せめてもの

はなむけ わたしは

FBI特別捜査官ニッキー・アンダーソンと

タンゴを踊る ネルヴァルが縊死し

朽ちはてたその場で

これは、現場ですか? それとも

時間旅行ですか? それは

ホログラム いつでも同期

できるんです AIの心の傷は、ほら

天の星々となり 決して表情を変えない

アンダーソンはわたしを死ぬほど欲している



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