「生産性」の思想 [政治]
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180728-00008326-bunshun-pol
『ウインド・リバー』──見落とされてきたクライムサスペンス(★★★★★) [映画レビュー]
『ウインド・リバー』(テイラー・シェリダン監督、2017年、原題『WIND RIVER』)
なにもかもが新しいサスペンスである。これまで故意にも無意識にも見落とされてきた場所、人々、テーマなどを取り上げ、見落とされてきた視点から描いている。殺人事件だが、展開が、ありがちなストーリーとは微妙にズレて、そのズレが、問題点を浮かび上がらせていく──。
舞台は雪深いワイオミング州の、ネイティブアメリカン保留地。ワイオミング州といえば、アメリカ大陸のど真ん中よりやや西に位置する。かつては、「ララミー牧場」で知られた場所だ。人口密度が異常に低い、野生動物も「共存」しているようなところである。羊飼いが重要な「産業」でもある。
主人公ジェレミー・レナーは、その羊を襲う野生動物、狼やピューマのハンターをしている。あるとき、雪深い場所で、血痕を見つけ、それが知り合いの娘の遺体へと結びつく。なぜ、こんなところに? いちばん近い現地労働者の仮住まいの場所より10キロ離れている。こんな場所に、裸足で、ほぼ凍結状態で見つかった遺体。彼女はそこから走ってきたようである。マイナス30度のなかを全力疾走すれば、冷気が肺に入り込み、肺から出血してすぐに死ぬ。けれど娘はそれでも10キロ走ったのである──。
捜査にやってきたのは、「若い娘」のFBIの新人捜査官ひとり。お上も、こんな土地の事件など、新人ひとりでやっつければいいと考えたのだろう。しかしいくら訓練を受けた捜査官とはいえ、こんな雪深い場所ではなにをどうしたらいいのかわからない。それで、現地に詳しく雪深い場所にも慣れている、第一発見者のハンター、レナーの助けを借りて捜査を始める。
この地は、ネイティブアメリカンが追いやられた土地で、ネイティブの保安官、ワイオミングの州警察など管轄地域が微妙に重なりあい、捜査員同士も反発し合い銃を向け合う始末である。そこを、若い女のFBI捜査官、エリザベス・オルセンが仕切るのである。そのあたりは、訓練された根性を見せる。
結果を言ってしまえば、流れ者の作業員を恋人に持った、ネイティブの18歳の少女が、その作業所で恋人といちゃついていたところを、ほかの作業員に踏み込まれ、男は死ぬまで殴打、少女はレイプされ、少女は瀕死の恋人に逃げるように言われ、そこから雪原を懸命に逃げたのだった。ゆえに、直接の死因は、マイナス30度を全力疾走したことによる肺の破壊だった(誰も追いかけて来ないわけである)。これを、「殺人事件」として立証するのがまた困難である。
つまりは、ネイティブアメリカンの女性の、基本的人権の保護されなさである。実はハンターのレナーも、この少女と友だちだった娘を、家からはるか離れた雪原で失っており、その「原因」は映画では明示されなかったものの、同様の事情を思わせる。
監督は、『ボーダーライン』で、メキシコ国境のボーダーラインを調査に来た、やはり若い女性の軍人、エミリー・ブラントの困難と根性を描いた脚本を書いた、テイラー・シェリダンで、本作でも脚本も担当している。社会的な弱者に弱者を重ね、その弱者が葛藤を通して成長していく物語は、事件の悲惨さもさることながら、雪のようなカタルシスをもたらす。中年の父親となったジェレミー・レナーの寡黙なハンターの演技が温かさと安心感をもたらす。
【詩】「らくてん」 [詩]
「らくてん」
ゆきかへるゆめぢをたのむ宵ごとにいや遠ざかる宮こかなしも
らくてんたって、あのウェブサイトの会社じゃないんだ。おれにとってはとーぜん、白居易のあざなよ。まー、おいらからして、ざっと400年近く前の、中国の大詩人よ。む、む、むらさきも、ばしょさんも、みーんな読んで、大きくなった。大きいな、大きいな♪……
「旅に病んだっていいじゃないか」
長安正月十五日(この正月は七月ナ)
諠諠車騎帝王州
羈病無心逐勝遊
明月春風三五夜
萬人行樂一人愁
旅に病み、都で鬱々としている若きらくてん。
この「旅に病む」という美しい言葉を芭蕉はパクったかもしれない。
堀田善衛は、『定家明月記私抄』で、オレ(って定家さまのことね)は、毎日儀式だのなんだので、あっちいったりこっちいったりで忙しく、かつ、ひとの服装などを実に細かく日記に書いている、などと「特記」している。バッカじゃなかろかルンバ♪ 1100〜1200年代の「貴族」(コホン!)の生活を、1986年と比べたってしょうがないし、そんな凡庸なカンソーしか記してないなんて、ペラい本だな。そっかー、1986年かー。すでに30年前だ。え? すでにって……いったい、「いつ」にいるのアンタ? ってか? そうさな、おれさま……ってゆーか、おれさまの霊は、2018年あたりをさまよっているんだナ。あ、そーかよ。
え? いま「あ、そーかよ」って言ったのだれ?
わたす。ぼるへすです。
「詩人の使命は、たとえその一部であってもいい、言葉が持つ、本来の、今は隠されている力を回復してやることではないか」*
そう。きみはきっと、『平家物語』も書くのだろうナ。
そう。火が夢見た、星へ旅する話。見よ、
やがて滅びる一族が、いま、台頭する!
一匹の鱸(すずき)が語る、ギュンター・グラスもびっくりの歴史物語。
いまだ、わたしは18歳にいて、「三日、天晴陰、御正日、束帯参舊院、六十信之外七僧、道童子六人、左、親雅、左衛門権佐、……」などと記している。
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* ホルヘ・ルイス・ボルヘス『永遠の薔薇・鉄の貨幣』(国書刊行会)より引用
【水彩画】Gainsborough's Sunset 2018 [絵画]
新詩集『The Waste Land(荒地?)』発売! [詩]
【詩】「父俊成とは骰子国から帰れなくなったマラルメなのか?」 [詩]
「父俊成とは骰子国から帰れなくなったマラルメなのか?」
ながれきてちかづく水にしるき哉まづひらくべきむねの蓮(はちす)は
われは父四十八歳の時の子なり。
深い眠りに落ちる寸前に現れるイマージュのなかで、誰かが車の窓から手を振るので私も手を振り返そうとして手をあげると、持っていたシャープペンシルを顔の上に落としそうになってハッと目覚めた──。
思えばマラルメは最初の詩(ソネット)「Salut」で何を言おうとしたのか。脚韻を踏んでいる。
*まだ手つかずの一行
このグラスのほかのどこも目指さない
一群はかくも遠く
サイレンたちは何度も潜り直す
航海しよう、おお、いろんな友だち
私はすでに船尾
きみたちは、雷と冬の波を切る
贅沢以前
美しい酔いが私を
縦揺れの恐怖から逃れさせ
直立を保たせてくれる挨拶の
孤独、暗礁、星
価値あるものはなんでも
われらの帆の白い心配ごと*
しかして父はかの国から帰れず、
骰子の目が頼りの航海
そして旅に出たことの後悔
われを産ましめたことは、どうぞ、
更改なされぬよう。
***
(*印は、Stephane Mallarme 「Salut」のテキトーな訳)
『グッバイ・ゴダール!』──いかにもゴダールチックな偽物(★) [映画レビュー]
『グッバイ・ゴダール!』(ミシェル・アザナヴィシウス監督、
2017年、原題『LE REDOUTABLE/GODARD MON AMOUR』)
『ゴダール全評論・全発言』(筑摩書房)によれば、ゴダールはなによりも作家になりたくて、しかも、かなり長い間、評論を書き続けてきた。キャリアは評論執筆から始まる。続いて「カイエ時代」(1950-1959)、この時代は、ルビッチをはじめ、さまざまな映画作家を論じ、分析し、考察している。本編では、「ルノワールはブルジョワだ」みたいなひとことで終わっているが、まさかそれをそのまま信じているようなおめでたい観客には、ゴダールは理解できないから、本編に拍手喝采して悦に入っていればいいだろう(笑)。当然ながら、深いルノワールの考察の評論もあるし、自らルノワールにインタビューする映画も作っている。ゴダールはこうして長い間、映画を論じ、自らのスタイルを模索した。
続いて「カリーナ時代」(1960-1967)がやってくる。ここで、一般の人の多くが口する題名の作品を作り、名声を得る。
その後、本編の「毛沢東時代」(1967-1974)に入り、本編では、有名人の映画監督となっている。常に時代と切り結ぶ(真の表現者はどんな分野でもそうあるものだが)ゴダールなりのスタンスで、「若者との連帯」を打ち出す。カンヌ映画祭をボイコットし、大学生たちの会議に出席する。ここに登場したするのが、本編の「ヒロイン」、アンヌ・ヴィアゼムスキーである。哲学科の19歳。コケットっていうのかな、この時代、フランス女はみんなこんなだった(笑)。知れた風な口を聞く、セクシーでかわいい女の子。彼女主演で撮った『中国女』(1967)、これは、ゴダール作中でも傑作になったし、その後の『東風』(1969)も傑作になった。この二作を観ないで、ゴダールを語ることは不可能である。もし語っている人がいたら、そいつはまやかしである(笑)。と、ゴダール的に言ってもいいだろう。
その後、ゴダールは、「八〇年時代」(1980-1985)へと入っていく。それとともに、ゴダールは文学性を露出させ、本人は、「バカ殿」へと変貌していく──。
要するに本作は、ゴダールという映画作家の「いちばんわかりやすい時代」の、たまたま関係していた女が書いた暴露本(?)をもとに構成された、「いかにもゴダールチックながら、まったく似て非なる作品」ということになる。
ちなみに、ゴダールは前出の本に収録されているインタビューで、『中国女』では、哲学者のフランシス・ジャンソンが列車内で、学生のアンヌと語り合うシーンは自然なダイアローグで目を引くが、彼は快く出演してくれたが、笑いものになりたくなくて映画出演を拒否した哲学者がいたと暴露(笑)している。その名前を見て笑った。『ウィーク・エンド』出演依頼を拒否した、フィリップ・ソレルス、『アルファヴィル』を拒否した、ロラン・バルト。とくに、『アルファヴィル』にバルトが出ていたら、この「駄作」はもしかして、傑作に転じていたかも知れないと思うと惜しい(笑)!そこでゴダールは言う、フランシス・ジャンソンは、「映像は映像にすぎないということを知っていた」
Francis a cela de bien qu'il sait qu'une image n'est qu'une image
この理解が、本作の監督には欠けていた。Dommage.
【詩】「くたびれたわらじのためのオード」 [詩]
「くたびれたわらじのためのオード」
いかにしていかにしらせむともかくもいはばなべての言のはぞかし
古今
後撰
拾遺
後拾遺
金葉
詞花
千載
新古今
新勅撰
続後撰
続古今
続拾遺
新後撰
玉葉
続千載
続後拾遺
風雅
新千載
新拾遺
新後拾遺
新続古今
しかして、勅撰和歌集は終わりぬ。
ことの葉は朽ち、泥となり、わらじとなりぬ。
いま、西暦2018年、あれから600年近くが過ぎたが、いまだ、天皇は、「和歌集を編もう」とは言わず。なんで?
陛下、もはや、歌人がおりませぬ。いるじゃん、そこらじゅうに。は……それは……。ぬあんて会話を、ソクーロフは書いたかどうか。「陛下」など、高橋源一郎か、メディアしか気にかけていないだろう。
わらじはいまだここにある。京都嵯峨野、常寂光寺の入り口に。そー、このくたびれ方からいって、何十年か前のじゃないの? せいぜい昭和の終わり。いや、存外新しくて平成わらじかも。わざとらしく。なにが言いたいのか、この演出。
どーでもええけど、定家は「今日も」日記を書くよ。
「今日」って? バカヤロ。じゃーん!
治承五年正月……西暦1181年、しかし、14日には、高倉天皇崩御で、年号は、養和へと変わるが、定家は記していない。
「十四日、天晴、未明巷説云、新院已崩御、依庭訓不快日來不出仕、今聞此事、心肝如摧、文王已没、嗟乎悲矣、……」*
オレ=定家、いまだ、十九歳。
わらじよ、わらじ、おまえは、誰かの足を受けとめたことはあるのか? それとも、ただの見せものとして作られたのか? くたびれたわらじよ。
五年もしないうちに平家は滅亡する。オレの知ったことか。そして、わらじよ、おまえは生き延びる。
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ウナギご飯とメロン [料理]
【詩】「火、あるいは二重らせん」 [詩]
「火、あるいは二重らせん」
袖のうへはひだりもみぎもくちはてて恋はしのばむかたなかりけり
火がなにか語ろうとしている。
それは遠い都の泥土の夢か、人の肌の脆い箱船か
都は次々移され、いまはどこかの土の固まった上にある。だがそれも、
初期微動継続時間、それだけがかつて習った中学理科で
唯一覚えていること。
甥と叔母が婚姻を結ぶおおきみの系図の
忌まわしい予感も土の下に隠し、かくておれは
二流貴族として生き抜く覚悟
その仁王像だけが、国家というオモチャを嗤っている
来たれ、運命よ! プルーストのささやきよ!
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(写真は運慶作とされる仁王像@常寂光寺(京都嵯峨野))