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【詩】「『楢山節考』考」 [詩]

「『楢山節考』考」

 

たしか中央公論新人賞を取った『楢山節考』は、選者の三島由紀夫をして、

「この作者はこの一編でもう他には書かなくていいだろう」と言わしめた。

その後、作者深沢七郎は、「夢屋」という今川焼き屋だったかな? という屋台をやりながら、作家活動を続け、全集も三巻ほどあるが、やはり三島が言ったことは正しいと思わせる。
映画化もされ、木下恵介監督、田中絹代主演は、テレビ映画で観たが、雪の夜だったか、息子が老母を背負って、「姥捨て山」に置きにいき、母をおろした息子が帰っていくとき、田中が雪の地面に正座し、息子の背中に両手を合わせている……という場面が印象的であった……が、はたしてその通りであったかどうか。民俗学者に言わせれば、確かに「姥捨て山」は存在し、そこでは、捨てられた年寄りたちが集落をつくり、畑などを耕して、普通の生活を送っていたそうだ。だから、考えは残酷だが、実際はそれほど悲惨でもなかった。それが現実だ。だが、21世紀の日本のお役所の用語の、「後期高齢者」の「後期」とはいったい何を意味しているのか? 当然、「人の一生の終点」=「死」が意識された「後期」であろう。
いまの老人は、95歳ぐらいまで生きる人々も多い。ということは、ひとは、「後期」をその後、20年近くも「生きる」ということになる。それは、一生の1/4から1/5 ──
その間、ひとは、というか、日本人は、ずっと「後期高齢者」であらねばならない。
一方、『楢山節考』の老人たちは、60代が中心であったのではないか? さらに、江戸時代の「姥捨て山」の住人たちの平均年齢も60代ではなかったか。

前期、中期、後期。

癌のような「病」にもある。

タームで区切るその「過程主義」の、思想。

その思想こそ、いわれもなく怖ろしいものに思われる。

だがひとは平然とそれを受け入れて生きている。

 

大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ 寺山修司




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