SSブログ

【詩】「チェホフ」 [詩]

「チェホフ」

 

「木下杢太郎詩集」を繙こうとして、岡井隆の「木下杢太郎を読む日」みたいな本があることを思い出し、かつ、チェホフを思い出した。以上あげた三人の共通点は、もちろん、医者であることだ。チェホフはたしか、ヤルタ会談で有名なヤルタの出身。風光明媚なリゾート地だ。そこは、プーチンの「ユーラシアニズム」によって、無理矢理ロシアに組み込まれた場所ではないか。チェホフはかつかつロシアの作家というわけだ。それと逆方向がカントで、カントはドイツの哲学者にくくられているが、実はロシアのテリトリーの出身ではないか? そんなことを思いつつ、毎年この時期になると思い出すのは、草田男の、

 

 燭の火を煙草火としつチェホフ忌

 

だ。

 

昔は蝋燭で灯りをとった、橙色の光に満たされた部屋。それは、チェホフに似つかわしい。このヤルタ出身の医者で作家の人物に。死とは、肉体そのものをなくすこと、肉体以外のものの喪失に関係していることは、少なくとも科学的には証明されていないような気がする。肉体をなくした人々が世界に満ち、それはいつまで続くのだろう? 資本主義に食われていく貴族、夢にくわれていく精神、農奴の子孫で医者のチェホフが書いたのは、そうした喪失の物語だ。

 

 こがれさふらふ鵠(はくてう)の

 君をしのぶと文(ふみ)つくる。*

 

 

****

 

* 木下杢太郎「古聿」より(「古聿」は、なんと、「ちよこれえと」と読む(笑))。

 

 


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

『判決、ふたつの希望 』──言葉の重さ(★★★★★) [映画レビュー]

『判決、ふたつの希望 』(ジアド・ドゥエイリ監督、2017年、原題『L'INSULTE/THE INSULT』 

 

この映画では、われわれ日本人の常識とまったく違うことがあり、その事実がどんどんわれわれを引きつけていく。それは、言葉の重さである。言葉が具体的な暴力行為と同等、いやそれ以上に扱われ、それがこの「事件」を国家レベルのものへと押し上げていく。

 

 最初に誰が作った知らないが、この映画の配給会社の人か評論家かが、この映画の梗概を作るのに、「ささいや口論」から始まったとした。これはそもそも、「ささいな口論」ではない。原題を見ればわかるように、「(言葉による)侮辱」である。これが、フランスが支配する中東圏では非常に重く扱われている。刑法にも、「言葉によるひどい侮辱に対する肉体の暴力での反論は罪を問われない」ということが明記してある。これには驚いた。日本の刑法にはあり得ない。言葉という、具体的なかたちのないものに対して、法律的な規定はできない。しかし、この国ではそれは誰もが認める自明なことになっている。つまり、彼らは、生地はどこであろうと、同じアラビア語を話すアラブ人なのである。それだからこそ、レバノンは、110万人という、世界第三位の難民受け容れ国なのである。つまり、難民なくしては国は動いていかない。ゆえに、「不法労働」など問題とされない。難民は、本作のようなパレスチナ人もおれば、当今のようにシリア人もいるだろう。そして本作は、一見、異なる宗教、国家の問題と見えながら、そういう問題も必然的に浮き彫りにされるのだが、やはり、個人の、人間的な問題がテーマなのである。

 

 レバノンといえば、主人公の一人のトニーが6歳頃からずっと内戦が17年間も続き、トニーもその被害者だった──。反政府派がテロリストと化したヒズボラ(これが住民支援などをしたり、国会議員なども出しているので、問題はさらに複雑化している)の地であり、それは、20年前なら、ジョージ・クルーニーのCIA工作員が活躍する『シリアナ』などというスパイものになっているのだが、さすが当今、それはもうズレていて、いまは、複雑な国際情勢下を、あくまで心を持った人間としてどう生きるかになっている。ゆえに、もう一人の主人公のパレスチナ人の男の方が、自分がされた言葉の侮辱を相手に投げつけ、自分がした、殴るという「反応の暴力」を相手から受ける。それで「互角」にする。ここを見落としてしまったら、この映画の意味はまったわからないものになってしまうだろう。時代が進むにつれ、問題は、微妙に変わっていく。そこのところを非常にうまく描き出している。



nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。