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桃とトマトのサラダのランチ [料理]

ちょっと前のランチ。桃とトマトのサラダ、スクランブルドエッグとキャベツのバター炒め、コーンスープ(インスタント)、クルミのパン、グレープフルーツ・ジュース。




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【詩】「ロゴスの中では、無は無ではない」 [詩]

「ロゴスの中では、無は無ではない」

 

「『テクスト』の有意味性。但し、意味とはいっても、それが、ロゴス的意味でないことに注意する必要がある。ロゴス的意味、つまり、プラトン的イデア、の客観的実在は、ここでは完全に否定される。「超越的所記(シニフィエ)」、すなわち、意識を超えて、意識の彼方に、人間が意識するとしないとに関わりなく、客観的に存在し続けるような意味対象、の実在性を否定するのだ。簡単に言えば、現今の記号学にいわゆる『指示対象(レフェラン)』を、記号学的シチュエーションから排除して、その空白のなかで、一切を相対的能記(シニフィアン)と相対的所記(シニフィエ)の関係に還元してしまうのである。『指示対象』の裏打ちを奪われた『所記』は、錯綜する記号連鎖の複雑な網の目のなかで揺れ、流れる。客体的に外在する『指示対象』という確固たる足場を失った『所記』の、この揺れから、霧のように立ち昇ってくる意味。」*

 

つまり、サルトルの「無」とは、ロゴス内の無であり、それはまったく無ではないのだった。

 

おフランスの「現代思想」を気取った人間は、「シニフィアン」「シニフィエ」などと口にしてみる。その多くが、内容を理解しているとは思えない使い方だ(笑)。

 

「シニフィアン」「シニフィエ」は、記号的イマージュの、聴覚面と、概念面を言った、ソシュールが、便宜的に、創作した用語だ。

 

たとえば、月という言葉があるとして、tsukiという音は、シニフィアンであり、宇宙空間に浮かぶ天体というイメージはシニフィエである。それらを合わせたものが、月という言葉なのだが、それらの総体を表す適当な用語がないとソシュールはいう。

 

このスイスの言語学者には著書がなく、ジュネーブ大学で行った三回の講義のうちの、生徒エミール・コンスタンタンの、染みのついたよれよれのノートの講義録が本になっている。ほかの生徒のノートをも合わせ総合し、整理した本もあるが、コンスタンタンのノートは、他の生徒のノートに抜きんでて詳細であり、この原資料を、そのまま再現したものが、もっとも信頼がおけるといえる。というか、ソシュールにふさわしい、ともいえる。

 

結局、このあたりから、ロゴスの外へ出て行く哲学者が多数いて、ジャック・デリダもそのひとりだ。

 

「無」などはなく、ひたすらに、シニフィアンとシニフィエの、「恣意的な」(勝手気ままな)戯れがあるだけなのである。世界は、ではなく、生には。

 

だからおのれは、こよいも歌をつくる、せめて、おのれの生のあかしに。

 

関の戸をとりのそらねにはかれどもありあけの月は猶ぞさしける

 

夜をこめて鳥の空音にはかるともよに逢坂の関はゆるさじ (清少納言)

 

だーばーだ、だばだばだ、だばだばだ……

 

 

****

 

* 井筒俊彦「書く──デリダのエクリチュール論に因んで」(『意味の深みへ』(岩波書店」所収)より引用

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