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『ヒトラーと戦った22日間』──ナチス版「出エジプト記」(★★★★★)

『ヒトラーと戦った22日間」( コンスタンチン・ハベンスキー監督、2018年、原題『SOBIBOR』)

 

 ヒトラーの『わが闘争』を読むと、ユダヤ人への嫌悪のはじまりが、ほんのささいな生理的なものであることがわかる。しかしその生理的なものは、抽象的な思想的なものよりも、より堅固で執拗なものである。本作も、(自称)アーリア民族の、ユダヤ人への、生理的嫌悪がこれでもかと示される。ナチス映画は多いといえど、本作ほど、ナチスどもの醜悪ぶりを活写した映画はまれである。見ている方も、つい収容されているユダヤ人と同じ気持ちになり、射殺されてもいいから、目の前のやつに襲いかかってやっちまえ!という気持ちに囚われる。

 そんななかで、ユダヤ人としての誇りを失わず、ゆえに、脱出、そして復讐の希望を失わずにいる人々がいる。ポーランドの三大絶滅収容所の一つ、ソボビルの話であり、原題もその名がついている。

 はじめは、作ったセットの風景が気になる本作が、痛めつける側と痛めつけられる人々との「日常」のなかで、苛酷な労働、理不尽な仕打ち、変質者に近い嫌がらせを経ながら、脱走を胸に秘める人々がおり、しだいに計画を立てていくのであるが、それをまとめている人物が、自分とはべつに、全体を仕切るリーダーがいることに気づく。そこへ、よその収容所からの脱走に失敗した、ソ連の軍人が送られてくる。この軍人、アレクサンドル・ペチェルスキー、通称サーシャが、リーダーに適役であることがわかり、彼に指揮をゆだねる。力も、勇気も、誇りも、やさしさも持っているサーシャは、まさに絶滅収容所のヒーローであり、彼の指揮のもと、脱出は果たされる。サーシャは、「全員脱出でなければならない」と主張し、ナチス側の、首脳を全滅させることを提案、実行に移す。その際、おびき出す役目に、10歳ぐらいの子ども、そして殺害実行者に、15歳の少年などが、自ら立候補して、任される。はらはらするようなサスペンスを見せながら、脱走が(歴史的にわかっていることだが)成功する。このあたり、みごとなエンターテインメントとなっている。確かに、本作は、完全にユダヤ側の話であり、それもそのはずで、ユダヤ人の聖書である、モーセ五書のうちの「出エジプト記」の反復であるからだ。制作は、ソ連の軍人を讃える物語だから、完全なるロシア映画である。クレジットもロシア語である。

 ダイアン・レインの元夫、フランスのターザン俳優、エキゾチックな魅力の、クリスタファー・ランバートが、その潤った目つきを生かし、なんとも嫌らしくも、1%のロマンチシズムを持つ、将校の長に扮していて、これがこの映画の、なんというか、複雑な精神性を支えている。

 


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同人誌『妃』20号(201809 ) [ザッシ]

『妃』20号(201809 )

 

くまったもんだ。またでんちゃんが送りつけてきてノノ。今度は、B5判。読み易い判だが、とくに評論などの字が小さくしてある。眼をこらして、建畠哲(どこかの美術系大学の学長をしていたようなノノ美術関係の賞の選考委員もしていたようなノノつまり、「有名人」の範疇で、このザッシ得意の「有名人のゲストに詩集評を書いてもらう」のひとつか。建畠哲氏には、Facebookの友だち申請したが、無視であった。ほかには、平田俊子さん、なんとかあや子さん、なんとかハゲ男氏、思潮社の方々、などに無視=拒否? されている。ま、エエけどさ。さして重要ではないと思いながら、あまり感じのいいものではないので、私はここ何年も、自分から友だち申請はしていない、PTSD状態(爆)である。

その建畠氏が、全然知らない人の詩集を評している。しかも、かわいそうに、その詩集の写真は真っ黒である。「一番高貴な詩の雑誌」というコピーがいつも表紙にあるが、そのコピーが泣くぞ。表紙もダサいし。だいたい、でんちゃんが3月に出した詩集の評を、9月末に出すとは、どんだけ時間をかけてるんだ? ナマモノならとっくに腐って、あとかたもないぞ。

建畠氏の文章はのっけからのけぞる。「私は美術評論の世界に身を置きながら、一方で細々と詩を書くという生活を続けてきたが、かつては珍しくはなかったはずのそのような評論家は、今はほとんどいなくなってしまっている。同類といえるのは正統的な美学者にして珍部類(イミフ(←山下記))の詩人である篠原資明、それに写真評論家の飯沢耕太郎(『茸日記』なる詩集がある)くらいしか見当たらない。倉石信乃(やはり写真の分野の論客として知られる)が初めて出した詩集『使い』には、そういうわけで大いに個人的な関心があり、一気呵成に読み通す(な、詩集を(爆)←山下注)ことになった」

ああ、そうですか。この最初の文章だけで、この人がいかに「詩や評論に疎い」か、また時代にズレているか、また、選民意識の持ち主かがわかる。

そりゃ、飯沢耕太郎氏は、「写真評論家」として飛ぶ鳥を落とす勢いの時もあったが、詩集など一度として話題になったこともない。だいたい、いっしょに同人誌やってたんですけどね、この人と。しかも、うちの泊まったことも何度かあり(爆)、タダメシを食っていったにもかかわらず、土産は一度も持って来ず、「今度、笹かまぼこ持ってきまーーーす」という言葉を最後に、いつしか「有名人」のようになって、完全に手の届かないところの人になっていたノノなどということも思い出すが、今回はでんちゃんの詩である(爆)。

この同人誌に載っているでんちゃんの詩は、すでにFacebookで読んでいるもので、ワタシ的には、「(でんちゃんの)過渡期」に属するものである。

中本道代氏が、前回の中沢けい氏と寸分違わぬ、「自分いい人見せ」の、おセンチな「感想」を書かれているが、まさに「感想」の域を出るものではない。でんちゃんも、この詩集『アジュモニの家』では、ある逡巡が見られ、こっちの方向に進んで、おセンチな眼で「50ポイント上乗せされる詩人にならなくてよかったワ。どうせでんちゃん、その場まかせで、「自分は語り部である」てなことを言ったのだろう。そんなもん、誰もが語り部であり、「自分は何者なのかと思いながら詩を書いて」いるんだワ。こういう、いい人ぶったおセンチな評論には、無意識の「上から目線」が存在する。

こんな、熱帯魚の水槽のようなザッシに、でんちゃんはなんのつもりで参加しているのか? たぶん「フィールドワーク」と思われる。

阿賀隈、亡霊のように登場した吠えるバーサン、葉山美玖、「こんなところにも」現れた、50歳すぎても、幻の青春を書き続ける女(個人トレーナーをどう思う?と聞いてきたから、「騙されてはいけませんよ」と、誠実な忠告をしてあげたのに、そういうまっとうな声を怨んで、親切にしてあげたのに、Facebookでワタシをブロックしたまま。なんら痛痒を感じないがな(笑)。しかし、この人のは、「実話」の部分がかなり多いから、アタマだけで書かれた詩より読ませる(爆)。あとは、中村和恵氏の、「今後のあるまじろ」は、わりあい面白いと思った。あとは、妄想のゴミ。17人で、いったい何部ずつもらってるのか? それらはどこへ届けられるのか? いずれにしろ自己満足以外のなにものでもない。そんな金があったら、震災の被災者か世界の難民に、そっと寄付でもしたら、ずっと世の中マシなものになるだろう? それにしても、飯沢耕太郎氏、いったいどこへ消えたんでしょーね?(爆)

今度こそ、除名になっても知らないからね、でんちゃん(笑)。


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清水哲男個人誌『BD 20 november 2018』 [ザッシ]

清水哲男個人誌『BD 20 november 2018』

 

つづいて(なにが「つづいて」だ?(笑))、清水哲男個人誌『BD 20』(BDというのは、フランス語の「bande dessinée」((こま割り)漫画)の略から取られている。月刊で、今号で通算20号になるが、発刊はだんだん早くなるようで、novemberが、早くも届いた。

個人誌のよいところを完全に生かし切り、勝手気まま、毎号思うままのザッシである。ザッシの魅力であるビジュアルも取り入れ、昔の号にくらべると、文学臭が抑えられ、ビジュアルが中心になりつつある。しかも、10ページほどの薄い冊子で、手に収まる(どこにでも持ち歩ける)サイズながら、ザッシの楽しさ満載である。

裏表紙は、時事に関することが多く、世の中をにぎわす「悪事」に、そうだそうだ、なんてものではなく、ケッコーはっきり言っちまってる。そこが個人誌の強みだ。

詩人にはあんまり送ってないのかな〜? 言及しているのを見たことがない。

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同人誌『Ultra Bards』Early Autumn 2018 vol.30 [ザッシ]

細田傳造氏が送ってくださった。細田氏が送ってくれなかったら、こういう、一見「敷居の高そうな」同人誌の存在など知るべくもなかっただろう。裏表紙にmembersと印刷されている名前は、阿部日奈子、有働薫、國峰照子、小林弘明、中本道代、眞神博、森山恵(この名前の横にだけ住所がない)、印刷七月堂、編集阿部日奈子。


そういえば、前号も送ってくださって、内容も記憶にある。あるのは、でんちゃん(細田氏)の詩ではなく(すまぬ)、森山さんて方が、ウェイリー訳の『源氏物語』を「日本語への〈戻り訳〉」(本人の言葉)をされていることを、後記に書かれていて、今号の後記を見て、そうだったと、思い出したのと、阿部日奈子氏の散文詩が、なにか外国の友人の「経験」を詩にしていて、今号もひき続きそんな感じだということ。有働薫氏は、でんちゃんがおフランス語を習っているということだった。


このザッシ、誰のこだわりか、幅を少し狭めれば、ひとに送るのに、180円のスマートレターに収まるのに、「わざわざ」正方形に近いかたちの変形版で、それゆえ、でんちゃんは、360円のレターパック・ライトに「突っ込んで」送ってくれた。自己満足以外のなにものでもないように、私には見える、このこだわりのために、郵送費は倍である。まー、すべてがそこに現れているのような、ケッコー時代に逆行した、エリートザッシである。そこに、なんで、でんちゃん? であるが、まあ、氏の詩、「犬三題」(犬になりきっている(笑)三つの詩である)を読めば納得がいく。ノラ公でんちゃんは、どうも、プードルなどの気取ったわんこのいる「お屋敷」に潜り込んでしまったようなのである。でんちゃん、犬好きかどうか知らないが、犬になりきっていることは確かである。同様に、バッタやカマキリなどになりきるのであるが、どうもこれがでんちゃんの才能のようである。しかも、T.S.エリオットが言ったように、詩は個々の言葉ではなく、構造に現れるというのを、実現している。ほかの「同人」の方々が、お書きになるのは、福島原発のロボット(國峰(このバーサンには、30年ほど前に絡んだことがあるが、また絡むことになってしまった(爆))の「説明」とか、イラン革命に遭遇した友人(ちなみに、井筒俊彦も自身が長期滞在を予定したイランを革命に見舞われて辛くも脱出する様子を書いているが)の聞き書きの「説明」(阿部日奈子)、今度は、井筒俊彦の『意識と本質』からの「引用」(だけの論文)(中本道代)とか、まー、よく読むと、気取ってるわりには、教養も創作力も疑問符のものばかり。でんちゃんはメス(つっても、若いのはいないよ(爆))の匂いにつられて侵入したのか? それはよくわからねど、前号より確実に進歩しているのは、よくわかった。たとえ前号の詩を覚えていない(ということが実は証左であるが)としても。


『源氏物語』であるが、私も、サイデンステッカー訳だったかな? と「原文」をつきあわせて、英訳の「論理」に「なるほどー」とは思うことはあるけど、その英訳からまた日本語訳を作りたいという欲望はない。それは「原文」からかぎりなく離れていく行為であり、また「構造」を消していく行為である(ということに気づかないのかな〜?)。『源氏物語』に関する外国人のすぐれた論文に、マックス・コメレルのものがあり、この論文を読めば、「戻り訳」がいかにズレた行為かはわかるであろう──。てなわけで、


でんちゃん、私に送ったことによって、除名されても、当方は責任持たないからね(笑)。



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『イコライザー2』(IMAX)──デンゼル・ワシントンはCIAが最も似合う男(★★★★★) [映画レビュー]

『イコライザー2』(IMAX)( アントワーン・フークア監督、2018年、原題『THE EQUALIZER 2』)

 

 

 時間の関係で、不本意にもIMAXで観たが、海辺近く&(なぜか)台風(笑)のシーンの戦闘は、すばらしいものがあった。すべてはここへ持っていくためのストーリーかと思われたが(笑)、ま、いいだろう。なんせ、5(?)対1である。しかも「敵」の「5」は、かつてのCIAの実行部隊の仲間で、戦闘能力は群を抜いている。デンゼル分するマッコールも、タクシー・ドライバーをしながら、裏では、仕置き人のような仕事をしている。その仕事を与えてくれるのは、これが、どうも古巣のCIA、しかも上司だったスーザンであるようだ。スーザンとは、親友。しかし、そのスーザンが何者かに殺されてそれを調べていくうちに……犯人は……かつての同僚のCIA局員だとわかる。マッコール、対世間的には「死んだ」ことになっている。犯人のひとり、やはり親友に近い存在だった男は、述懐する──「おまえが『死んで』から、自分は闇の殺し屋をやるようになった」。ここが判断のしどころである。合法的殺し屋たちが、その「親方」を離れ、「悪を懲らしめる必殺仕置き人」になるか、「ただの殺し屋」になるか(爆)。このへん、現実的には、微妙かもしれない。しかし……まあ、映画ですから(笑)、ここは、カタルシスのための「正義の味方」がいるんです。

 というわけで、プルースト「失われた時を求めて」を読む、フェミニストの心優しき殺し屋の登場なのである。

 そして「悪の5人」を全滅させるため、かつて妻と暮らした海辺の家に、善悪殺し屋たちが集まって、死闘を繰り広げるのである──。

 で、その戦闘シーンがすばらしいのである。もしかして、スピルバーグ『激突』あるいは、『プライベート・ライアン』に匹敵する? そこんとこ、渋さが魅力の黒人監督、アントワーン・フークワ、これからが正念場と見た。同じワシントンが、カリスマ刑事に扮し、アマチャンのイーサン・ホークを鍛える、『トレーニングデイ』(2001年)のエンディング・ミュージックのラップはときどき聴いている私であるが、あれからもう17年も経っているので、さすがに本作の音楽はもはやラップではなく、なにやら重苦しくもどこかにブラックな味つけのセンスのいいなにものかである。それが2018年のクールを彩る。いずれにしろ、デンゼル・ワシントンは、CIAが最も似合う男である。

 IMAXだと、デンゼルといっしょに、自分も闘っている気分になる(爆)。



 


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6月の落柿舎と8月のマイケル(猫) [写真]

 

6月に行った、芭蕉が滞在した、弟子向井去来の別荘、落柿舎(京都嵯峨野)と、8月のお盆休みに実家へ帰った際、普段はリビングに繋ぎっぱなしのマイケルが、たまに、ベランダ付近に移動させてもらってリラックスの図。

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【詩】「ロミオとジュリエット」 [詩]

「ロミオとジュリエット」

 

バスの中で(iPod miniで)、マイケル・ブーブレの『フィーバー』を聴いておる。この、『ウェストサイド・ストーリー』を思わせるリズムの歌のなかで語られる、フィーバーすなわち、「熱」、恋の熱、ロミオ〜アンド、ジュリエット〜、なる言葉も当然出てくる──。思えば、ブーブレのこの曲を初めて聴いたのは、カレの車のなか、猛スピードで飛ばすカレが、「すきな曲を選んでいいよ」と言ったので、助手席で私が選んだ曲がこれだった──。車はアンダルシアを貫通する高速道路を突っ走る。ドン・キホーテもぶっ飛んでいく視界のなか、若きイタリアの男女が登場、

 

If I profane with my unworthiest hand

This holy shrine, the gentle fine is this,

My lips, two blushing pilgrims, ready stand 

To smooth that rough touch with a tender kiss.

 

パーティーで出会った二人は、二人でソネットを完成し、最後の行はキスで終える。

 

英国社会は、表面は開かれているけど、奥へ踏み込むと、歴然とした差別が存在する──そうな。それは長年そこに住んだ、ある外国人の感慨。

 

もしも私の穢れた手があなたの聖なる祭壇を汚したというなら

はにかみやの二人の巡礼、すなわち私の二枚の唇が、やさしいキスでお許しを乞うため、ここに控えてございます

 

ロミオ〜♪ アタマの回転の速い色男〜♪

ジュリエット〜♪ 最も強い女〜♪

 

スピードメーターの赤い数字は、187を指している

対向車は皆無〜♪

飛ばせ〜飛ばせ〜♪

「サラゴサ」という標識も背後にぶっ飛んだ〜♪

 

てな、すでに妄想の領域へと踏み込んでいく追憶

をぼんやりと味わうオバサン。

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【詩】「ギー」 [詩]

「ギー」

 

Facebookに、ギーってバカがいる。バカだというのは、すぐにわかる。「丸出し」にしているからだ。ここまで「丸出し」だと、文学的な人は、「もしかして韜晦?」と思うかもしれなくて、そのあたりを小賢しくも学んだのかもしれない「早稲田の一文」(聞いてもないのに、本人曰く)で。でも、「一文」というのが私にはわからない。わかっているのは、その大学は授業料が高そうだなーということだけだ。ちょっと前、東北かなんかで、父親と自分の貧しい一シーンを、おおそうだ、「父の日」にちなんで書いていたような。それで、ビンボー人の子なのかなー?と思ったけど、「早稲田の一文卒」なんだもんね。永山則夫はとても手が届かないだろう。さて、

ギーが永山則夫みたいに、サイテーに貧しい出自だとして、はたして、永山則夫になれただろうか? 牢屋(って、江戸時代じゃないんだから)で、マルクスの資本論なんか読了しただろうか? 無理だね、と、私は思う。一応は開いたかもしれないが、読み切れてはいないだろう。まあ、中国共産党員もほとんど読んでないそうだから、安心したまえ、ギーのオッサン。オッサンのプロフィール写真を見ると、ポリネシアンみたいに、ちょっといい男風だ。何年も前の写真だというが、まあ、風貌はよかったんだろう。青春時代。それで、今みたいに、おふざけやっていても、そこそこ友だちもいて、モテたんだろう。しかし、オッサンの誤算は、それが永久に続くと思ってしまったことだ。あわれ、いまは、うちのページで、私のような無名人をほめて、いい気させたりするくらいしかやることがないのか? ひとこと言っておきたいのは、このオッサンと、その女友だちの「後輩」とかが、いっしょに私のページにやってきて、いろいろモンクをつけた事実について、私はこのように分析する。私のような文章が書けないので、羨望とか妬みはあったと思う。そして、私が「無名な一般人」なので、蔑みもあったと思う。こういうヤカラは、相手が有名人でないというだけで、自分たちは棚に上げて、蔑むのだ。そして、中身もよく見当しないで、ただ威張っている人、名前は有名な人にへつらうのだ。それが証拠に、大したことないやつなのに、威張っていたり、有名であったりする人々に対しては、私に対してのように、はじめから親しいように書き込みできないのだ。そのあたり、完全なるバカではなく、小賢しいバカ、つまり、「早稲田の一文」で、なにか身につけたバカなのだ。ちなみに、私は、インド料理に使う脂の名前を名乗っているこの人物について、具体的なことは、聞かないでも本人が言った、「早稲田の一文卒」ということしか、具体的なことは知らない。それも、ほんとうかどうかは、どーでもいいので、調べる気もないのだが



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「レジ袋がどれだけの汚染の原因となるのだろう?」 [環境]

海外ニュースで、海に溜まったプラスチックのゴミの映像には、レジ袋のようなものはひとつも見受けられません。環境がそのようなもので汚染されているとはとても思えない。現実をまったく見ていない発言である。

 

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<原田環境相>レジ袋の有料配布、義務化検討へ

10/4(木) 20:31配信

 

 

原田義昭環境相=首相官邸で2018年10月2日、玉城達郎撮影

 原田義昭環境相は4日、報道各社のインタビューで、海洋汚染が深刻なプラスチックごみの削減のため、小売店などで配布されるレジ袋の「有料化を義務づけるべきではないか」と述べ、実現に向けて検討する考えを示した。関連する業界団体に協力を呼びかける姿勢も示した。

 

 国内のレジ袋消費量は年間約300億枚とされる。小売業者は容器包装リサイクル法に基づき、有料配布などを通じて消費抑制の努力をするよう求められているが義務ではない。地域ごとにスーパー各社が足並みをそろえて有料化している例がある一方、コンビニやドラッグストアには客離れを懸念する声もあり、業態によって温度差がある。

 

 原田環境相はプラごみ対策について「消費者の問題もあり、皆さんの意見を聞かなければならない」としながらも「環境政策と経済政策は対立するものではない」と話した。

 

 プラごみの海洋汚染問題を巡り、環境省は来年6月に大阪で開催する主要20カ国・地域(G20)首脳会議に向けて「プラスチック資源循環戦略」の策定作業中。今年の主要7カ国首脳会議(G7サミット)で署名を見送った「海洋プラスチック憲章」を上回る削減やリサイクルの数値目標を盛り込む方針だ。【五十嵐和大】


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『クワイエット・プレイス』──新ET(★★★★★)(ネタバレ注意!!) [映画レビュー]

『クワイエット・プレイス』( 2018年、ジョン・クラシンスキー監督、原題『A QUIET PLACE』)

 

 ホラー映画に叫びは付き物だが、本作はその「必需品」が初めから禁じられている。どんなに叫びたい時でも、声をあげたら、地球を侵略している何者かに即刻襲いかかられ食われてしまう──。

 アメリカの、実際にあるらしいのどかな場所で、主人公の一家は「暮らして」いる。だがその暮らしは、サバイバーとしての暮らしであり、今後もそれが続くであろうことは、導入からすぐにわかるようになっている。一方、最後まで知らされないのは、なぜそのような事態となったのか、一家を襲ってくる、昆虫が巨大化したような「生物」は、なにもので、どこから、なんの目的で来たのか? ということ。

 ただ、days 64とか、days 451 とか、「日数」のみが知らされ、時間の経過はわかるが、あくまで、daysであり、1週間、1ヶ月、1年といった単位ではない。またなぜその一家だけが生き残っているのかも明らかにされていない。夫は、サバイバルの日々、「敵」が、どのような時に襲ってくるのか? ウィークポイントはどこか、などを研究している。おそらく他人のものであったろう古民家に棲みつき、周囲のとうもろこし畑などには、遠くからでも「危機」が一目でわかる灯りをめぐらせ、少し歩いたところにある谷川で捕った魚を食糧としている。

 「敵」の巨大昆虫様生物は、耳のようなものが巨大化し、バッタのような脚を持っている。どうも人間を襲い、それを食糧としているようだ。そして音をたてるものに襲いかかる習性があり、視覚は発達していないように見える、というより、眼がない。そこを研究して一家は生活を組み立て、サバイバルしてきた。普通、こういう設定の作品はゲテモノ・ホラーが多かったので、そういう展開になるのだろう思って見ていると、だんだん趣が違ってきていることに気づく。

 一家の主婦(エミリー・ブラント)が、長い釘を思いっきり踏んづけてしまったり、出産したりで、叫びたいようなシーンが山ほど盛り込まれ、そのすべてを沈黙で耐えなければならない。一家の長女は、小学校高学年かやっと中学生といったところか、聴覚障害で、父が作った特殊な補聴器を耳にあてがっている。これで、「敵」の発する特殊周波数の音を察知し逃げることができる。そして、これが、敵を全滅させることに導く。つまり、スピルバーグの「ET」では、地球外生物とのコミュニケーションは「ある音階」であったが、本作は、コミュニケーションとは言えないが、「接点」が音の周波数だと判明する。カート・ラッセルを思わせる風貌のこの利発な娘が陰のヒロインとなっていく。よくある紋切り型ホラーと違って、一家の無事は約束されていない。「当時」最年少の4歳の次男も、父親も、敵の犠牲となる。新しく生まれた男の赤ん坊と、少女の弟の長男を守るのは、そう、母親のブラントと聴覚障害の長女。彼女たちの「勝利」を、一応は活写して、この活劇は瞬時に幕を降ろす。





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