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【詩】「定家2」 [詩]

「定家2」

 

The Tarahumara Indians have come down,

sign of a hard year

and a poor harvest in the mountains.

 

Naked and tanned,

hard in their daubed lustrous skins,

blackened with wind and sun, they enliven

the streets of Chihuahua,

slow and suspicious,

all the springs of fear coiled,

like meek panthers.*

 

タラフマラ・インディアンが降りてきた、

厳しい年のしるしだ

そして山は凶作の

 

裸で日焼けした、

泥を塗りたくった輝く皮膚は強靱で、

風と太陽に晒されて黒ずんでいる、彼らは活気づかせる

チワワの通りを、

ゆっくりと用心深く、恐怖で巻かれた全身のバネ、

のっそり歩くヒョウのように。

 

1977年に出た『大江健三郎全作品第二期 Ⅰ』の、巻末エッセイ「詩が多様に喚起する=わが猶予期間(モラトリアム)3」に、紹介されている、オクタヴィオ・パス編集、サミュエル・ベケット訳の、『メキシコ詩、アンソロジー』、私も入手していま、集中最も「新しい」詩人、アルフォンソ・レイェスの、「タラフマラ・ハーブ」という詩を訳してみた。これは、ベケットの英語を訳しているのだ。若い、トリニティ・カレッジを出たばかりのベケット。このエッセイが書かれた頃、1889年生まれのレイェスは、存命であった。生まれた年が、死んだ年で閉じられていない。しかし、いくらなんでももう死んでいるだろう。129歳になるのだから。

大江氏は、散文でのみ、この詩を紹介し、数行の引用はあるものの、たった一行も訳していない。それは、

散文家の「偽短歌」(大江の言葉)へのみっともなさの轍を自身も踏むまいとしたのだろうか。その点、太宰治は、自殺のさいにも、そういうみっともなさは、踏まず、辞世として伊藤左千夫の歌を残したと、褒めている。そして、みっともない自作の辞世を残した三島由紀夫を軽蔑している。

定家よ、自分の散文家などと驕るつもりもない、ブログやってる一般人の私には、ノーベル賞受賞文学者となんの関係もないだろうから、ここはひとつ、みっともない偽短歌を作ってみようと思う。

 

 メキシコの草葉の露もよく知らずすぐる月日ぞ老いらくの恋

 

大江氏は、略奪者のスペイン人が付けた、ネイティブ民族の名前、Tarahumara(タラフマラ)を、タフマラと書いている。氏なりの考えがあってのことか? エッセイ中、何度も書いている。そうと信じているようだ。いずれ、当時の読者で、「それはちがう!」という者はいないだろうし、版元の新潮社の編集者も校閲者も、気づかなかったに違いない。ネットがなかったから、調べるといっても容易ではなかったに違いない。第一、この詩が載っている原書も、編集者は見ていなかったに違いない。

このエッセイを読んだ時から、私は深く心惹かれ、(たぶん)Amazonで、原書を入手した。ありがたいことに、ブログやってる一般人にも、ある程度の資料を入手できる。しかしながら、

ネットを敬遠している文学者、創作家はけっこういると思われる。検索ぐらいはするかもしれないが、ネットの外で、文学活動をしている。ネットは軽薄なイメージがある。有象無象がひしめき合っているイメージ。りっぱな人のすぐ隣りにバカがエラソーな顔をしている。しかしまあ、われわれは、そういう時代を迎えているということだ。それが知的に意味のあることかどうか、知らない。

平安から鎌倉にかけての貴族男子は、漢文で日記を書いたものだ。それは、日々の感慨というより、記録である。それは貴族男子の仕事である。

 

アモーレ、アモーレ。

 

 

*****

 

* Alfonso Reyes (1889ー ), Tarahumara Herbs, "MEXICAN POETRY An Anthology" Compiled by OCTAVIO PAZ, Translated by SAMUEL BECKETT "(GRVE PRESSE, INC/New York)

 

Special thanks to Kurage for the picture


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