【詩】「浪花恋しぐれ」 [詩]
「浪花恋しぐれ」
そらわてはアホや
酒もあおるし、女も泣かす、
けど、どれもこれも連歌のためや
ゆうて、伊賀出身のはせをは旅に出た。若いじぶんから、なんたらという女がいて、隠し子までいたらしい。いでよ! 芭蕉の子孫!
芭蕉七部集の最初、「冬の日」。なんのことはないシンプルなタイトルが画期的とか。場所は名古屋で、かっこよく興業を始めた。わびしい冬の風景が……しだいに貧乏家になって、尼の過ちになって、妊娠して、子をなくして……剃髪した毛をまた「はやす」となっていく……。「はやす」は俳語である。私も大学時代、ロングヘアにしていて、芝居の仲間の後輩の、今思えば、麻原ショウコウに似たような男から、「山下さん、その髪、いつ頃からはやしてるの?」と言われた。「は、はやすぅ〜?」見れば、その男も、私と同じほどの長さのロングヘアである。だから、オーム真理教の、麻原なる男が世間に登場した時、私はその後輩を思い出したものだった──。なんて私的なことはさておき、芭蕉は、どうも、連歌を、俗っぽい方、俗っぽい方へと持っていったようである。その意図は?
翁と呼ばれながら、初老の入り口で死んでしまった男。その装束は、わびさびの色である。
うちはあんたがりっぱな宗匠になるまでは、どんなに辛くても泣かへん。
なんやその辛気くさい顔は、
おはま、酒だ酒だ、酒こうてこい!
……って、そんなマッチョをよしとした時代もあった。朝鮮という言葉には、なんら政治的意味はなくて、外国種という意味だった、そのススキに、匂いはないと、連中は付ける。
【詩】「氷雨」 [詩]
きえわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしのもりの白露
建仁元年七月、1201年、藤原定家38歳、『新古今』所収。
安東次男は、集英社版の『芭蕉七部集評釈』と『続芭蕉七部集評釈』を絶版として、ちくま学芸文庫の『完本風狂始末』を正式な、芭蕉七部集を「評釈した」著書とした、そうだ。それはなぜなのか、ぼんやり考えた。そして上記の書物に当たってみた。集英社版の二書は、ちくま学芸文庫版の『完本風狂始末』とはまったく違う内容である。前者は、七部集の歌仙の巻かれたへの道程を綿密に辿り、それまでの人事や心理を考証する。それは、著者から見たら、歌の実力をめぐる連中たちのバトルである。一方、『完本風狂始末』は、文献を駆使しての連歌論である。資料は、岩波新日本古典文学大系の『芭蕉七部集』と重なる。1990年刊のそれは、1973年、1978年、それぞれ刊と、2005年刊の間にある。
笠は長途の雨にほころび、紙衣(かみこ)はとまりとまりのあらしにもめたり。
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉
たそやとばしるかさの山茶花(さんざくわ) 野水
有明の主水(もんど)に酒屋つくらせて 荷兮
冷たい雨に紙の衣はびたびたになって破れている。主水という名の星。
外は冬の雨。帰りたくない。