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『アリー/ スター誕生』──女優誕生(★★★★★) [映画レビュー]

『アリー/ スター誕生』(ブラッドリー・クーパー監督、2018年、原題『A STAR IS BORN』)

 

 4度目のリメイク作品になる映画である。本作以外の3作品とは、1『栄光のハリウッド』(1932年)ジョージ・キューカー監督、2『スタア誕生』(1954年)ジョージ・キューカー監督、3『スター誕生』(1976年)フランク・ピアソン監督。2の主演はジュディ・ガーランド、3の主演は、バーブラ・ストライザンド。私はそのどれも観ていないが、1899年生まれ、今生きていれば、119歳(笑)のジョージ・キューカー監督の、最後の作品『ベストフレンズ』(1981年)を20代で観ている。ジャクリーヌ・ビセットとキャンディス・バーゲンが親友でライバル同士を演じた豪華な作品は、メグ・ライアンがどちらかの娘役として出ているが、当時、キューカー監督は、女性を美しく撮るのに定評があると言われ、そのことだけは忘れずにいた。

 ブラッドリー・クーパーがそのことを意識していたかどうか知らないが、彼もその監督魂を継承して、奇態な風貌の印象があったレディ・ガガを、ものすごく美しく、ナチュラルに撮っている。こんな自然で美しい女優がいたのかと思ったほどである。

 超有名歌手の男に見出され、スターの階段を昇っていく歌手志望の女と、その女と反対にスターの階段を転がり墜ちていく男。しかし、二人の愛は深まっていく──。ありそうでないラブロマンスである。そんな物語を、圧倒的な歌唱とオリジナリティの歌で綴っていく。今年の観納めにふさわしい映画である。

 


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『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』──今年なにもいいことがなかったと思っている人へ(★★★★) [映画レビュー]

『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 』(デヴィッド・イェーツ監督、2018年、原題『FANTASTIC BEASTS: THE CRIMES OF GRINDELWALD』)

 

 作り物といえば、リアルな親子や恋人同士の葛藤も、作り物なのであるが、そういう設定だと、なぜかホンモノだと思ってしまう観客がいる。そういう観客からすれば、本作など、子ども騙しのファンタジーなのだろう。『ハリー・ポッター』の原作者のJ.K.ローリングが、「魔法」を題材に選んで物語を書き始めた時から、書くことには困らないことは目に見えていた。選んだもん勝ちである。

 「ファンタスティック・ビースト」っていうくらいだから、架空の動物がテーマで、それらをめぐってあれこれ物語が展開するが、ハナシが、人間の血縁の方へ逸れてしまっているのは、人間臭くて、残念である。しかしまー、ジュード・ロウやジョニー・デップなど大物俳優が、魔法といっしょに遊んでくれるのだから、気持ちは結構あがる。少なくとも、『スター・ウォーズ』よりは、動物たちも華やかで魅せる。映像も美しい。で、まー、今年何もいいことがなかったという人は、こんな映画で、一年を締めくくってはどうだろうか?


 


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【詩】「ダンシングオールナイト、あるいは、大菩薩峠」 [詩]

「ダンシングオールナイト、あるいは、大菩薩峠」

 

もしかして、町田康原作、宮藤官九郎脚本の『パンク侍斬られて候』は、中里介山『大菩薩峠』を下敷きにしたものかもしれない。というのも、導入部の、巡礼の老爺を試し斬りするあたりはまったくそのまんまなのである。猿が活躍する(笑)ところなども。そのほか、いろいろあるかもしれないが、私も全巻を読んでいるわけではないので、なんとも言えない。それはさておき、

やっとわが家にテレビ受像機なるものが入った頃であったろうか、(当然)白黒のテレビドラマ『大菩薩峠』を観ていたような気がする。すでに子どもの時間は過ぎた夜の10時過ぎ、寂れた御堂の中に隠れる、黒の着流しの武士……それは、眠狂四郎のイメージと重なる、田村正和であったような気がするが、実際は、平幹二郎? 映画では知恵蔵? あるいは、雷蔵? 時間のなかでそれらが入り乱れる──。

甲州街道駅から青梅街道まで、12.5キロ、徒歩で2時間37分。青梅から16里、約64キロ、

〒404-0022山梨県甲州市塩山上萩原、大菩薩峠登山口バス停まで、同じく徒歩で国道411号線沿いに、19時間31分、77.5キロ、

机竜之介は、この大菩薩峠まで

「黒の着流しで、定紋は放れ駒、博多の帯を締めて、朱微塵、海老鞘の刀脇差しをさし、羽織もつけず、脚絆草鞋もつけず」素足に下駄穿きでやってきた。海抜は、

2678m。

まさに、超人。いな、昔の人の体力はそんなものだったかもしれない。時は幕末。

ダンシング・オールナイト。言葉にすれば、

ダンシング・オールナイト。

嘘に染まる。

 

 炭売のをのがつまこそ黒からめ 重五(発句)

  ひとの粧ひを鏡磨寒(かがみとぎさむ) 荷兮(脇)

 花棘(はないばら)馬骨(ばこつ)の霜に咲かへり 杜国(第三)

 

 江戸時代は、村はずれに、「馬捨て場」があったというのは、衝撃である。その馬捨て場の、白い馬の骨の間に、霜がつき、白い野いばらが咲いている。過去の現実の時間=歴史を知らなければ、とうていわかる句ではない。「プレバト」では、どうしようないのである。

 

この店で最後の夜を、どちらからともなく

決めて、ぬくもりを手探りするように、

踊る。

はじめてあった夜のように。

 

古い御堂から現れるのは、辻斬りの、机竜之介とはかぎらない、

ぎいいい……

「あたり前田のクラッカー」沓掛の時次郎こと藤田まこともまた、そこから現れる、

てなてなもんや、てなもんや〜♪


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【詩】「もしかして、鴎外は郷ひろみかもしれない症候群」 [詩]

「もしかして、鴎外は郷ひろみかもしれない症候群」

 

石炭をば早や積み果てつ。

引用が半分以上の、高橋源一郎『日本文学盛衰史』を、講談社文庫で読んでいたら、二葉亭四迷のことを理解していたのは、鴎外と漱石だといふ箇所にいたり、突如、郷ひろみの顔が浮かんだのである。それもある意味無理からぬところがあるが、まづは、なぜ「文庫本」?といふことに答えておかう。といふのはね、単行本を買つてあつたんだが、売つちまつたのだ、ブツク・オフ、オンラインに。でも、その続編が、『今夜はひとりぼっちかい?』といふ題で、出たので、さういや、前編を読んでなかつたことに気づき、探したがないので、ジュンク堂福岡店の、講談社文庫の棚に探しにいつたといふわけである。あつた、一冊。「高橋」の列は、ほかの「高橋」の方が多かつた。この「タカハシさん」(と本人著書でたびたび書いている)は、書店の棚に個別の名前タグもなく、ひつそりと、マイナー系なのだつた。それでも、メデイアなどにいろいろ顔出し、選考委員にも顔を出しているから、ま、それなり「文豪」なんでせうか? そんなこと、わしはどーでもええ。え? わしですか? 森のリンちゃん、鴎外その人よ。で、鄕ひろみだけどさー、まー、おれが生まれ変わつた姿といつてもええかもな。それは1989年、おそらく昭和も終わりの年、ありましたんですのよ、篠田正浩監督、『舞姫』、主演は当然、ごーごー、れつつごー、ひろみ! きみたち、ドイツ人、ぼくたち日本人、おいでーあそぼー、ぼくらの人生、やめるよメルケル〜♪

 

 歯朶の葉を初狩人の矢に負(おひ)て 野水(第三)

  北の御門をおしあけのはる 芭蕉(初表四)

 馬糞掻(ばふんかく)あふぎに風の打ちかすみ 荷兮(初表五)

 

新年、貴人が、初めて狩りに出る様子。もはや、2018年ともなれば、ほとんど意味を失つているパラダイム。その点、わたしの作品は、結構イケてると思ひます。さういや、ひろみが言つていた、「いや〜ハリウツドつてすごいですね、ぼくのまわり脇役、群衆、すべて、ぼくの身長に合わせて選んでくれるんですよ」それは、トム・クルーズの『ミツション・インポツシブル』を見れば、否が応でもわかるだらう。いや、最近のハリウツドは巧妙で、結構、クルーズより背の高い女も合わせてくる、といつた、「自然さ」を選んでいる。だつて、撮し方によつてどーにでもなるつて、気づいたからサ。

されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。

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妹、小林貴子の74枚目の油絵@ブログ [絵画]

妹、小林貴子が、74枚目の油絵をブログで発表したが、今回は、これまでよりアタマひとつ抜けたところがあると思ったので、シェアしてみました。


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2018.12/15
あぐらを組む女
Oil on canvas
72.7×60.6cm





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12月の花 [写真]

「黒蝶」という名のダリア@青山フラワーマーケット

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冬景色 [写真]

冬景色@福岡城あたり

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【詩】「落葉とくちづけ(ヴィレッジシンガーズ)」 [詩]

「落葉とくちづけ(ヴィレッジシンガーズ)」

 

なにかジングルベルのような軽やかな鐘が鳴り響いているような前奏曲に続いて、清水ノノ道夫のバリトンが歌う、

せめて最後の慰めに、あなたと森を歩きたい、心を込めた言葉にも、冷たく木枯らし騒ぐだけ、作詞は橋本淳、詩人です。冬枯れの森を歩くたびにこの歌が鳴り響く、作曲、すぎやまこういち。

 

Les sanglots longs

Des violons

  De l'automne

Blessent mon coeur

D'une langueur

  Monotone.

秋の

ヴァイオリンの

長い嗚咽が

おれの心を傷つける

 その単調な

物憂さが

 

1866年、大西洋横断海底電線が施設された。もっとも確かな電信網。インターネットの時代は目に見えていた、日本はいまだ明治維新にはいたらず、その年、すなわち慶応2年、薩長同盟が結ばれた。せめて、最後の慰めに、あなたと森を歩きたい、せめて最後の思い出に、あなたといちど、くちづけしたい、龍馬と中岡慎太郎は熱いくちづけをかわす──。

「冬の日」歌仙、第一巻の終わり、安東次男『芭蕉七部集評釈』は、いちいち、「狂句こがらしの巻」とか、勝手な小題をつけているが、そんなものは、当然、原本にはない。第一巻は、

 

 綾ひとへ居湯(フリユ)に志賀の花漉(はなこし)て 杜国(名残裏五。花(春))

  廊下は藤のかげつたふ也 重五(挙句。春(藤))

 

 で終わるが、安東は、「綾を以て花を漉すという通解はおかしい」と書いているが、岩波「新 日本古典文学大系」、上野洋三の校注によれば、「綾絹で漉した湯」で、「唐の楊貴妃のような栄耀を誇る女性の入浴」だそうである。

まあ、「絶版」は賢明な選択であったろうか。ところで、堀口大学だかなんだかは、なんで、

 

秋の日の

ヴィオロンの

ひたぶるにうら悲し

 

などと訳したのかな?

これは、感傷というもので、おそらく、原詩は、アンニュイというものであったろう。日本はいまだ、近代に至らず、したがって、

アンニュイを知らず。だが知らなくてもいいだろう、日本人は、美しい落葉の森を歩きながら、ひたすら感傷に浸ることで、精神的な充足、時間と季節と歴史と自我が一体となるのを感じるのだから。せめて、最後の慰めに、あなたと森を歩きたい。


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【詩】「舟木一夫」 [詩]

「舟木一夫」

 

安東次男は絶版にした集英社版『芭蕉七部集評釈』で、野ざらしの旅に飽きた芭蕉が名古屋で歌仙「冬の日」を巻くまでの「事情」をあれこれ類推しているが、その記述は、まるで俗な小説のようであり、私としては、「そんなこと、どーだっていいじゃん」である。こういう記述を長々やるところに、すでにして「絶版」に値する何ものかが含まれている──ってなもんである。

 

しにもせぬ旅寝の果(はて)よ秋の暮

 

するぽんみらぼーくるらせーぬ、え、のざむーる

Sous le pont Mirabeau coule la Seine

Et nos amours

つきひはながれ、わたしはのこる

Les jours s'en vont je demeure

れじゅーるさんう゛ぉん、じゅどぅむーる

しかして、舟木一夫は、渡哲也がどべたに歌う

「くちなしの花」を完璧にカバーし、

ロラン・バルト『表徴の帝国』(L'Empire des signes、1970年)の、おそらくはその帝国に住まう、

王子として、その美を讃えられている──のかどうか知らないが

事実、『表徴の帝国』の序文に、「文章は図版の説明ではなく、図版は文章の例証ではない」と書いている。「それは、私にとって、視覚のほころびのきっかけである、それは禅がさとりと呼ぶ、テキストとイメージの絡み合いのなかでの、体、顔、文字の流通を保証するもの、そこに記号の後退を読み取るものに、おそらく似ているのではないか」しかして、舟木一夫は、その完璧な日本人の男性としての美と、おそらくはバルトは聴いたことがないであろう、顔よりもさらにセクシーな声を混じらせ、学生服で「高校三年生」を歌ったデビュー当時のままで、渡哲也がなし得なかった、くちなしの香りを、時間のなかにまき散らすことに成功している、それこそ、不透明な(opaque)帝国のプリンスなのである、そして芭蕉は、のちに舟木を生むことになる愛知県は尾張で、最高の連衆を相手に歌仙を巻くのである。それは、貞享元年、1684年、将軍は徳川綱吉、ヨーロッパは絶対王政の時代、詩人コルネイユがひそかに死んでいった年である。

 

くちなしの花の、花の香りが、

 

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『ボヘミアン・ラプソディ』──ラミ・マレクはアカデミー賞を取れるか?(★★★★★) [映画レビュー]

『ボヘミアン・ラプソディ』(ブライアン・シンガー監督、

 2018年、原題『BOHEMIAN RHAPSODY』)

 

 イギリス社会というのは、容易に移民を受け容れてくれるけれど一歩奥へ踏み込むと、異人種に対して徹底して扉を閉ざしていると、長年イギリスに住んでいる外国人が言っていると、佐藤優の著作にあった。

 本作のキモは、「パキ」(この言葉は、ダニエル・デイ・リュイス主演の『マイ・レフト・フッド』で初めて聴いたが、と差別的に呼ばれる、イギリスに住むパキスタン人の、しかも、日本でいう、出っ歯(?)の男が、ロックグループのボーカルとして、世界的に成功し、最後はエイズで死んでいくまでを描いている。そのロックグループは、インテリ揃いで、音楽の作り方も前衛的である。その前衛が、いかに、大衆の心をつかんでいくかを、ことさら重点的に描いている。さすが、『ユージュアル・サスペクツ』のブライアン・シンガーである。

 私は「クィーン」なるグループの名前ぐらいは聞いたことがあったが、なんら関心はなかったが、予告篇が非凡であったのと、フランス『プレミア』誌(ネット版)で、クィーンのギタリスト、ブライアン・メイが、カリスマ的ボーカルのフレディ・マーキュリーを演じた俳優、ラミ・マレクを、アカデミー賞に値する、フレディそのものだと賞讃していると報じていたので観る気になった。

 この「怪優」、実際はアメリカはカリフォルニア生まれの白人で、出っ歯でもないのかもしれないが、「なりきり」では、ダニエル・デイ・リュイスを超えているとも思える。まさに、大衆の心を惹きつける真の芸術とは、オペラやシェークスピアなどを取り込み、それらを超えて、オリジナルなものを創造していくことにある。当時はシンセサイザー音楽も華やかなりし頃であったが、徹底したアンチ・シンセサイザーも、音楽としても深さを感じさせる。すでに絶大な人気であったのかもしれないが、今こそ音楽的に、再評価されるべきであろう。本作は、その成り立ちと価値を十分に描き得た。恋愛や恋人(男女とも)とのエピソードなど、本作の本意ではないだろう。やはりこれだけのものを描くのには、9年という月日が要った。

 


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