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『臨床医学の誕生』ミシェル・フーコー(Naissance de la clinique, Une archeologie du regard medical, par Michel Foucault)神谷美恵子訳(みすず書房、1969年刊、原書は1963年刊) [哲学]

『臨床医学の誕生』ミシェル・フーコー(Naissance de la clinique, Une archeologie du regard medical, par Michel Foucault)神谷美恵子訳(みすず書房、1969年刊、原書は1963年刊)

 

今はあたりまえのように、誰もが病院へ行ったり、「入院したり」「入院させたり」しているが、いったいいつから、ひとは、あたりまえのように、病院へ「入る」ことになったのだろう? とぼんやり考えていたら、棚の本書に手が伸びた。すでに線が引かれ、読んだ形跡はなきしもあらず。しかし、今ほど、本書を思い起こさねばならない時代はないだろう。

著者のフーコーはすでに1984年で死んでいて、この頃は、「介護」という言葉もなかったし、58歳で死んだフーコーは、この時代でさえ、若死にであったが、ひとが、90過ぎても多く生きつづけるなど考えもしなかっただろう。

にもかかわらず、ここに語られている言葉は、「社会」の介在が「病」という事態を作りだし、「病気」として記述されるという現象を、ホーキングの宇宙論に対応するかのように、内面の宇宙へのディスクールとして認識を迫る。

 

「変化したのは何か、といえばことば(ランガージュ)の支えとなる、音なきゲシュタルト(configuration)が変わったのである」

 

「病的現象を構成する諸要素の再編成(諸症状の植物学の代りに、病の徴候(シーニュ)の文法が用いられるようになった)。病的事件の直線的系列の定義(これは疾病分類的な諸類型の繁茂に対抗する)。生体における疾患の表現(一般的疾病単位の消失。これらの単位は諸症状を一つの論理的形象にまとめ、病気の本体を、その原因と結果とともに、三次元の空間の中に位置づける局在的規定可能ならしめていた)。臨床医学の出現は、歴史的事実として、これらの再編成体系と同一視されなければならない」

 

小林秀雄は、ニーチェの文献学を、「激しい文献学」といったが、フーコーの文献学は、さらに激しい文献学である。しかし、昨今の、「介護的」状況は、いかなる文献を必要としているのだろうか?

 

「人間の思考のなかで重要なのは、彼らが考えたことよりも、むしろ彼らによって考えられなかったことのほうなのである」

 

(カギ括弧内は、『臨床医学の誕生』序文からの引用)




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