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【訳詩】T.S.エリオット「J・プルフロックの恋歌」(『プルフロックとその他の観察』(1917)より))1 [訳詩]

T.S.エリオット「J・プルフロックの恋歌」(『プルフロックとその他の観察』(1917)より))1


 


じゃ、行こうか、きみとぼく


空に夕暮れがまき散らされるとき


麻酔をかけられた患者みたいにテーブルの上の


行こうよ、とある半寂れの通りを抜けて、


ごちゃごちゃいう避難場所


眠れない夜の一夜専用安ホテルの


そしておがくずレストラン牡蠣の殻が散らばった


たどっていく通りうんざりさせられる議論のように


狡猾な意図の


膨大な問いにきみを導くための...


おっと、聞かないでくれよ、「それはなんだ?」って


行こうぜそれから訪問してやろう。


 部屋を女たちが行ったり来たりしている


ミケランジェロについて話しながら。


 


 


****


 


(訳者記:第一連、かたちは、シェークスピアを思わせるソネット)


 


T.S.ELIOT 


THE LOVE SONG OF J.ALFRED PRUFROCK (From "Prufrock AND OTHER OBSERVATIONS, 1917


 


Let us go then, you and I,


When the evening is spread out against the sky


Like a patient etherised upon a table;


Let us go, through certain half-deserted streats,


Of restless nights in one-night cheap hotels


And sawdust restaurants with oyster-shells:


Streets that follow like a tedious argument 


Of insidious intent


To lead you to an overwhelming questions...


Oh, do not ask, "What is it?"


Let us go and make visit.


   In the room the women come and go


Talking of Michelangelo.




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【詩】「そういえば、川崎長太郎という私小説作家がいたな」 [詩]

「そういえば、川崎長太郎という私小説作家がいたな」

 

わが寝室は、左右の壁に

作り付けの引き戸付きの本棚があり、仰向きに寝た位置から

左側の一面は、

日本作家の本が並べてある。

右側の本棚よりに、万年床の蒲団が敷いてあり、

まー、これが、いまどきのベッドというところかな。さて、右側の

本棚の、最下段あたりは、ちょうど寝た位置から、並べた本の背表紙が眺められて、まさに、「枕頭の書」の置き場である。

そこに、講談社文芸文庫の藤枝静男『田紳有楽 空気頭』があったので、もうこれは、しばらくは読まないなと、左側の棚の上段の方に

戻そうとしたら、そこに、やはり講談社文芸文庫の川崎長太郎が

数冊あるのが眼についた。そうだ、そういえば、

川崎長太郎という、私小説作家がいたなと、

手に取ったしだいである。

1901年、かろうじて20世紀になった年の生まれとあるから、

今生きていれば、118歳。そんな老人はいないので、

すでに、われらの同時代人とはいえず、

一昔前の作家である。

魚屋のせがれで、実家に戻って家賃ただで

住んでから、ほそぼその原稿料、印税などでも、

貯金ができていた、

と書いている。

61歳で結婚した。

62歳の老齢を、事細かに綴っている。

そんな時代があった。

「私小説作家」と自称、他称する作家は数々おれど、

このひとなど、純粋の私小説作家だろう。

それにくらべれば、車谷長吉などカッコつけていたし、

徳田秋声もそんなとことだな。なにせ、川崎長太郎は、

住んでいる家屋の描写もハンパでない。

その即物かげんは、

詩の領域に達している、かのようだ。

そんな作家も死に、

わが父も、10日ほど前に死んだが、

死というのは、生と曖昧につながりながら、

物へと化している。

「人は死んだらゴミになる」という本を出した

検事だったかがいたが、そんな言葉も思い出されて、

葬儀社が用意した、

「送りびと」の女性がきて、

死体をきれいにしてくれる。

「送りびと」という映画の影響なのか、あるいは、

そんな仕事がすでに存在していたので、

映画になったのか。

死に化粧のショーを、遺族にとことん

見せてくれる。

「ご遺体をほぐします」

と言って、ぎゅっと死後硬直した

腕や脚を折り曲げるのだが

物理的にいって骨を折っているだろうか?

そして、頬には、ゴッドファーザーのときの、

マーロン・ブランドのメークのように、

大量の綿を詰める。

それで、「見場のよいご遺体」ということになる、

と信じているようだ。しかし、

わが父に関しては、身内びいきか知らないが、

そういう死に化粧をしない方が、

自然でよかった、ようなノノ。

川崎長太郎が、

60過ぎて結婚したように、

父も、清楚な美人の送り人に、

体をいじられて、さぞ満足した

ことだろう。

そんな状態で2年もベッドにいたので、

父は、どこからが死で、どこまでが生か

わからず、涙のようなものも湧いてこない。

有名な作家だろうと、

無名な老人だとうと、

同じように物に移行してしまう。

鮮やかな時間が光速のような速さで、

わが幼児期を

通過する。


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『運び屋』──イーストウッドがつける人生のオトシマエ(★★★★★) [映画レビュー]

『運び屋 』(クリント・イーストウッド監督、2018年、原題『THE MULE』)

 

「100歳まで生きたいなんて、99歳の老人しか思わない」なんてセリフが生きる、老人映画。超高齢化社会のヒーローとして、ご老体が登場しだして久しい。いろいろかっこいい老人が登場したが、極めつけはこの人。リアルに人生のオトシマエのつけ方を示す。それは、終盤の、逮捕されたあとの裁判に表れる。いくら90歳とはいえ、法を犯したことには間違いはない。しかし、朝鮮戦争で活躍した退役軍人であり、前科もない。女性弁護士は、情状酌量を求めて熱弁をふるい始める──と、そこへ、「ギルティ!」と、被告の爺さんが自ら言う。裁判長は、「被告本人が言うならどうぞ」ということで、イーストウッドは立ち上がり、自らの罪を「有罪」と下す。そして逮捕、刑務所へ。ということになる。娘と孫娘は驚く(元妻は少し前に彼を許し、かつ会いに来てくれたことに満足して死んでいた。逮捕のきっかけとなったFBIの麻薬捜査官、ブラッドリー・クーパーも驚く。そして──。

 老人は刑務所の花壇で、デイリリー(鬼百合のように見える華麗な百合)を作っている。その花こそ、冒頭に登場し、主人公のアール老人が、人生をかけた花であった。この花の栽培で成功し、夢中になり、家族をかえりみず、好き勝手やって生きてきた……。一人娘は12年半も彼と口をきいていなかった。事業も傾いていた。そんな彼が、90歳になって、ひょんなことから、麻薬を運ぶことになった。最初は知らずに。それが大金になって、家族の幸福にも役に立ったし、家も手放すにすんだ。しかし、それは、存外大きな犯罪へとなっていった。なにしろ、運んだ麻薬の量がハンパではなかったのである。そんなアールにいろいろな人間が絡んでくる。アンディ・ガルシア分する麻薬王、彼の手下たち、捜査官のブラッドリー・クーパー、元妻のダイアン・ウイースト、超豪華キャストである。しかし彼らが示すのは、さりげないやさしさである。決して大上段に構えた映画ではない。しかし、老人が自らを「ギルティ」と宣言したとき、イーストウッドは自らの人生のオトシマエをきちんとつけたように思った。泣けた。

 エンディングの音楽は、やはりイーストウッドの音楽趣味のよさをあらためて思い出させてくれた。





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けふのランチ@20190307 [料理]

けふのランチ。


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【詩】「ずるくて器用な詩人」 [詩]

「ずるくて器用な詩人」

 

ずるくて器用な詩人は

目に留めたものを

サッと持って行く

まるで

カラスが

捨てられた

エメラルドの指輪を

くわえていくように

それに

器用に加工をほどこし

自作として

世間に出す

まるで

メキシコ人の

ワルモノインディアンが、

観光客に

まがいものを

売りつけるように

ずるくて器用な詩人の前途は

揚々(と、本人は信じている)

だけど

それを見ている

眼があることは

お忘れにならないで

なんせ盗んだものなので

一皮剝けば

ご都合主義

ちゃんと私は見ている

私? メキシコのある街の

岩場の道路で、

インディアンの強盗に襲われ

眉間に一発の弾丸

そののち

岩にぶつかり

車大破で

夫とともに

即した

女です。

指に、大きな

エメラルドの

指輪を填めていました。

生きていた

ときは。


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【詩】「国際電報」 [詩]

 


「国際電報」


 


切り裂く



情事の


オワコン


センチュリーハウスの


エコロジー部門


流れゆく


サンドイッチの


包み


さようなら


ニンフたち


鷲は


舞い降りる


小説


作法


詩を


書きとめた


メモ



見つからない




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『ビール・ストリートの恋人たち』──ブルースを聴け!(★★★★★) [映画レビュー]

『ビール・ストリートの恋人たち』( バリー・ジェンキンズ

監督、 2018年、原題『IF BEALE STREET COULD TALK』)

 

ビール・ストリートとは、アメリカ南部、テネシー州メンフィスにある古い黒人街にある、ブルースの創始者、黒人作曲家、W.C.ハンディが住んでいた通りである。

 ジェームズ・ボールドウィンは、ただの「原作の黒人作家」ではなく、非WASPのアメリカを代表する作家である。当然、非WASPには、ユダヤ人も含まれ、ベロー、マラマッドなどが、ボールドウィンと並ぶ。

 本作は、ほぼ、原作通りに、話者が、若い女性の、ティッシュの視点で貫かれ、過去と現在と、時間が自由に操られ、ともすれば、社会モノになりかねない作品の、深い内面化に成功している。ボールドウィンは、黒人だが、社会的なスタイルを持つ作家ではなく、プルーストにも通じるような、内面的な作家であり、そこから批評性がより強烈に表現される。

 映画が描き出すのは、ごくあたりまえの黒人の一家である、それは、小津安二郎の世界にも通じるような、ほんわかした生活がある。両親があり、姉妹があり、幼なじみの恋人がいる。

 ただひとつ違っているのは、その恋人が、レイプ犯として逮捕されてしまうことである。ここから、話者の女性、通称ティッシュの苦悩が始まる。恋人を疑うなどということは、まず考えられない。だから、一家中が、彼の無実を証そうと奔走する。『失われた時を求めて』では、日常を綴ることによって、プチブル、貴族社会の構造が明らかにされるが、本作では、絶望的な差別社会が浮かびあがる。

 もともとはネイティブの土地であった、アメリカ大陸を、WASPが略奪し、アフリカから黒人奴隷を「輸入」した。それが、差別の構造の土台である。この土台の上に、恋人たちの愛がある。そして、絶望ゆえに、黒人たちは暴動を起こす。鎮圧に向かった警察や軍隊が、「個別に」、黒人たちを襲撃する。そういう世界を暴露するのが、ボールドウィンである。

 そして、その絶望の魂を歌うのが、ブルースである。映画は、多くのブルース、ソウルの歌手たちを引用し、1970年代の叫びを、現在に届ける。だから、ブルースを聴け!




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『グリーンブック』──自分が黒人だと思ってみろ!(★★★★) [映画レビュー]

『グリーンブック』(ピーター・ファレリー監督、 2018、原題『GREEN BOOK』)

 

 今は、「アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)」なるものがあり、その見地から見れば、本作は、「痛快な作品」となる。どうせ喜んでいる日本人の観客は、自分は黒人ではなく、その精神は、かつて南アフリカにあった、「名誉白人」の精神構造と似たものであろう。しかし、肉体的に、瞬時で白人でないとわかる。そこを忘れているのは、おめでたいというほかない。

 確かに、二度目の助演男優賞を射止めた、マハーシャラ・アリも、ヴィゴ・モーテンセンも、立ち姿美しい俳優たちで、ほのぼのな感じでのロードムーヴィーであるが、社会の基礎に、絶対的差別が存在する社会があり、その差別を垣間見せてくれた点では、意味のある映画であった。そして、「名誉白人」(?)のシドニー・ポワチエはじめ、ハリウッドの黒人俳優は、アファーマティブ・アクションの上に乗っかっている黒人と言っていい。本作も、物語は、紋切り型の差別ものへと進み、水戸黄門ではないが、最後は、黄門さまが、葵のご紋の印籠を出してメダシタシメデタシである。庶民の映画はそうあらねば、おじいちゃん、おばあちゃんは納得してくれない。

 本作の、ドクター・シャーリーは、クラシックの天才ピアニストで、すでに有名であるが、1960年、黒人差別の色濃く残る、南部へ意識的に演奏旅行にいく。『グリーンブック』とは、黒人が宿泊可能なホテルが列挙してある冊子である。ここに、黒人といえば、「ジャズ」という、すり込まれ差別が存在する。映画は、そこを告発するまではいかず、高級ホテルで招待演奏家なのに、レストランで食事させてもらいないシャーリーが入る、黒人が経営しているレストランに入って、即興演奏を頼まれる。そこへ、常連の黒人ジャズメンが加わり、思わぬ「セッション」は映画のクライマックスである。

 しかし、ジャズからさえ黒人が追放されていた事態もあるのである。アメリカにおける黒人差別は、過ぎ去った問題ではなく、アファーマティブ・アクションによって見えなくなっている問題であり、決してぬぐい去られてはいない。だから、もっとよく黒人について考えてみるべきだ。というので、次は、ジェームズ・ボールドウィン原作『ビールストリートの恋人たち』を観るつもりだ。





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