SSブログ

『グリーンブック』──自分が黒人だと思ってみろ!(★★★★) [映画レビュー]

『グリーンブック』(ピーター・ファレリー監督、 2018、原題『GREEN BOOK』)

 

 今は、「アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)」なるものがあり、その見地から見れば、本作は、「痛快な作品」となる。どうせ喜んでいる日本人の観客は、自分は黒人ではなく、その精神は、かつて南アフリカにあった、「名誉白人」の精神構造と似たものであろう。しかし、肉体的に、瞬時で白人でないとわかる。そこを忘れているのは、おめでたいというほかない。

 確かに、二度目の助演男優賞を射止めた、マハーシャラ・アリも、ヴィゴ・モーテンセンも、立ち姿美しい俳優たちで、ほのぼのな感じでのロードムーヴィーであるが、社会の基礎に、絶対的差別が存在する社会があり、その差別を垣間見せてくれた点では、意味のある映画であった。そして、「名誉白人」(?)のシドニー・ポワチエはじめ、ハリウッドの黒人俳優は、アファーマティブ・アクションの上に乗っかっている黒人と言っていい。本作も、物語は、紋切り型の差別ものへと進み、水戸黄門ではないが、最後は、黄門さまが、葵のご紋の印籠を出してメダシタシメデタシである。庶民の映画はそうあらねば、おじいちゃん、おばあちゃんは納得してくれない。

 本作の、ドクター・シャーリーは、クラシックの天才ピアニストで、すでに有名であるが、1960年、黒人差別の色濃く残る、南部へ意識的に演奏旅行にいく。『グリーンブック』とは、黒人が宿泊可能なホテルが列挙してある冊子である。ここに、黒人といえば、「ジャズ」という、すり込まれ差別が存在する。映画は、そこを告発するまではいかず、高級ホテルで招待演奏家なのに、レストランで食事させてもらいないシャーリーが入る、黒人が経営しているレストランに入って、即興演奏を頼まれる。そこへ、常連の黒人ジャズメンが加わり、思わぬ「セッション」は映画のクライマックスである。

 しかし、ジャズからさえ黒人が追放されていた事態もあるのである。アメリカにおける黒人差別は、過ぎ去った問題ではなく、アファーマティブ・アクションによって見えなくなっている問題であり、決してぬぐい去られてはいない。だから、もっとよく黒人について考えてみるべきだ。というので、次は、ジェームズ・ボールドウィン原作『ビールストリートの恋人たち』を観るつもりだ。





nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。