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【詩】「シニフィエ、シニフィアン、ジャパニーズ・ダイアナ・ロス」 [詩]

「シニフィエ、シニフィアン、ジャパニーズ・ダイアナ・ロス」

 

「シニフィエというのは音、シニフィアンというのは意味です」と、井筒俊彦は、高野山での、「言語哲学としての真言」という講演で言っている。シンプルなことなのである。しかし、これを、しち難しい内容にしているのは、西洋哲学からの論理、ソシュール、ラカン等の「著書」であり、それらの翻訳をなまかじってしまったヤカラ(プロ、アマ不問)なのである。そしてまるでX線を通すように、日本古来を研究した柳田国男のテクストに、妙な思考を通していくとは、勘違いも甚だしい。ソシュールが考えたことなどは、とうに空海が考えていた。その教えを伝えているのが真言密教である。しかし──真言密教もありがたいものかもしれないが、私にはそれほど関係ないのである。というのも、この226事件の日付に、父を失い、その葬式を「神葬祭」で行ったからである。いわゆる「神道」を、ほんとうは、神葬祭というと、柳田自身が、『故郷七十年』で書いている(柳田の父は途中から神主になった人で、「神道」も途中からようであるが、山下家も仏教からの転向者であった)。そして、聖書の死者を送る言葉が、その神父神父が独自に選んでいいように(バチカンに留学した神父に聞いた)、ノリトも、その死に際して、個人個人、作られるべきだと柳田は主張し、亡父のためにノリトを作っている。よって、こないだ、父の葬式(家族葬)の時にも、神主は、あらかじめ弟が書いていた父の経歴を読み上げていた。まあ、それは、「いいとこどり」の経歴であるが(笑)。しかしうちは、ずっと神道を信仰していたわけではなく、父母が結婚して住み始めた近所のオススメで、霊友会という仏教の新興宗教を信心していて、母はその仏壇に向かっていまだにお経(お題目は、南無妙法蓮華経である)をあげ、神道の五十日祭が終わり、祭壇も片づけられ、父の位牌は、その仏壇に吸収された(笑)。自然が、遠州の森が、父の死のシニフィエを歌えば、マック・ザ・ナイフを、シナトラ並に歌う、ジャパニーズ・ダイアナ・ロス、弘田三枝子、まだ十代のミコちゃんが、合いの手を入れ、そして、宇宙には、シニフィアン、意味の雨が降る。思えば、西洋知性が創り上げた言語の向こうに、かぎりないことばの海がひろがり、エントロピーもブラックホールも、重力の虹も、そして、夢、も膨張していく。そんな……ことを、ものごころついた時、教えてくれた父だったが、いま、その個体の多くはゴミ(豊橋市の焼き場は、骨の全部を拾わせず、残りはどうなったか不明だからだ)となって、土にかえっていく──からいいか。というように、私小説のように、ワタクシを開陳しなければ、表現者としてなにごとも語れず、どこかのムラの伝説ばかり頼りにしていたのでは、ほんとうの詩ではないということで、そんなテクストでは、読んだひとは救われないということである。おのれ自身を知れ、とは、ソクラテスの思想である。



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