SSブログ

【詩】「タイタニック、あるいは、撃沈」 [詩]

「タイタニック、あるいは、撃沈」

 

もー、何年前かしらー? あ、そっか、ディカプリオが出てたのか、その映画にね。あれから、ディカプー(通称レオ)は、何作映画に出たかわからない。大スターだけど、無冠の帝王。出世作は、『ギルバート・グレイプ』。彼は、「白痴」(と言ってはいけないのだろうけど)の少年を演じ、ジョニー・デップが兄を演じた。二人ともこの作で認められ、大スターの道をいったが、二人とも、オスカーは取ってない。ディカプーは、ほんま、ほんまもんの白痴かと思ったわあ。それから、『太陽と月に背いて』で、ランボーを演じて。ほんま、ランボーが乗り移って、わたしゃ、いまだに、ランボーという字を見ると、ディカプーを思い出すワ。それから、トム・ハンクスと共演の『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』もディカプーらしい、悪ガキを演じた。この題名は、クリスマス・ソングからとってる、アメリカ人なら誰でも知ってる文句だね。

 

あー、俳句はですね、5・7・5を並べ、季語を入れればいいってもんじゃないんです。なにより「場」の芸術ですから、「場」がないとね。そして、芭蕉の芸術だから、そこんとこを、弟子の許六みたいに、『あら野』を熟読してください。そして、もう芭蕉センセイがお亡くなりになった年をすぎて、恋とか愛とか、女とか言わないでください。もー、悟って、辞世でも構想すべきですね。それか、即身成仏への道か。

 

古典は、なにより文法なんです。そこんとこ、マスターしないと、同工異曲でも、まったく違ったものになってしまいます、丸谷才一、うそうそ。

 

『タイタニック』のヒロイン、ケイト・ウィンスレット、あんなイメージとはほど遠い。素顔をさらして、「女優は作られたもんよ!」と勇ましくも発表しました。

 

オジサンがた、モーソーするのは勝手ですけどね。

 

水底にふかきみどりの色見えて風に浪よる河やなぎかな

 

すなわち、撃沈。



lo190526_2.jpg





nice!(3)  コメント(0) 

『ベン・イズ・バック』──トップを走る女優の最高峰(★★★★★) [映画レビュー]

『ベン・イズ・バック』(ピーター・ヘッジズ監督、2018年、原題『BEN IS BACK』)


 


 のっけから、ジュリア・ロバーツの演じる女は、「リベラル」であることを知らされる。というのも、ジュリアには、「黒人」の幼い男女の子どもがおり、養子なのかなと思っているとそうではなく、今の夫との間の子どもなのである。この一見黒人の子どもたちは、ハーフなのだろうが、「黒人色」が強い。再婚の夫は、黒人で、りっぱな紳士である。ジュリアには、19歳の息子と、その妹の、二人の「白人」の連れ子がいて、彼らの父は白人と知れるが、彼らは、まっとうな黒人の父に愛情を抱いている。そしてその父は、裕福で、理解も愛もある。そういう一家の息子は、ワルとは縁遠いだろうが、ケガの治療のために使われた鎮痛剤(名前はいろいろだが、麻薬性のものなのだろう)で、中毒になってしまう。完全に医療ミスなのである。しかし、中毒には変わりなく、息子がいかに、「墜ちて」いったかが、少しずつ、関わり合う人間たちによって知らされる。


 クリスマスの日、息子は更生施設を抜けだしてくる。良識派の夫と娘は不審感を抱くが、ジュリアは心から歓迎する。しかし、夫と話し合った末、施設に戻そうとするも、一日だけ、ジュリアの監視を離れないという条件で、息子は家に留まることを許され、一家はいっしょにクリスマスイブの日を過ごす。夜教会から一家が帰ってみると、自宅が荒らされ、飼い犬がいなくなっている──。


 ここから、ごく普通の、といってはおかしいが、悪い仲間との戦いが始まる。それは、どれでも似たようなケースで、更生しようとしている人間にまとわりつき、彼を愛する者をも巻き込む。そこで、ジュリアの活躍である。ど根性の母親といっても、誰にでもできる役ではない。ジュリアだからできる役なのである。そう、あの、ごくフツーというより、やや下流の子持ち女が、水質汚染を暴く、『エリン・ブロコビッチ』を思い出す。ジュリア・ロバーツは、それほど学歴のある役はやったことがないような気がする。しかし、いつも、世界を変えて見せる。普通の主婦であり、母親が、堂々、ヤクの組織と戦うのは、胸がすく。ジュリアはそういう役をやってきた。群を抜く演技力と美貌で、女優のトップを走ってきた。その彼女が、「キャリアの最高峰」と言われる役を演じた。そういう、作品である。


 


 


nice!(1)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。