【アート】「クリムト展_ウィーンと日本1900@豊田市美術館」(2019/8/16) [アート]
「クリムト展_ウィーンと日本1900@豊田市美術館」
グスタフ・クリムトの生涯と、家族、友人などの、作品と写真、グッズで構成された、クリムトのすべてといっていい展覧会。
工芸学校で修行したクリムトは、絵の道具を扱う手法は確かであり、装飾から出発して、そこを出ることなく、とことん装飾を極め、どこまでも装飾であり続けた。
結局のところ、芸術の自由さにまで到達できていたかどうかは疑問である。常に陰鬱さがつきまとい、それがこの画家の絵の絵葉書などを、自宅に飾ることを躊躇させる。
【ニュース】『NHK特ダネ? 昭和天皇「拝謁記」』考 [ニュース]
『NHK特ダネ? 昭和天皇「拝謁記」』考
盆休み、実家でふだんは見ないテレビを見ていると、NHK「新資料発見!昭和天皇の秘められた事実!」などと銘打ち、何度も自慢げに「宣伝」している。小分けに放送しているようだが、なんでも初代宮内庁長官、田島道治氏の家族が秘していた記録、田島氏と昭和天皇との「対話」を、田島氏が記録したものが発見され、それは、『宮内庁実録』には記されていないものが九割だという。
その中で、昭和天皇は、太平洋戦争の発端となる、張作霖事件への「反省」、軍部の暴走を止められなかった「反省」、国土と人民の命を縮小してしまったことの「反省」などを述べ、昭和26年の時点で、この「反省」を全国民に伝えたいと思っていたことが明らかになったという。
ここには、軍部が政府を呑んでいく事実(これを「下克上」と表現しているところが、それだけで、昭和天皇の内面もわかろうものだが(笑))が、現実の事実と重なってはいるものの、それほど大騒ぎするものかとも思われる。第一、東京書籍発行の『宮内庁実録』(高橋源一郎は「ヒロヒト」という小説(『新潮』に連載されたが、「その後」、どうなったか、わからない(笑))の資料に使ったものの、Amazonでは全然売れてない(笑))というものは、ものものしい響きながら、公の日録で、昭和天皇の「心」のなかにまでは踏み込んでいない。それに記されていない「事実」が九割として、「後悔」や「反省」を、昭和天皇の「人間像」として持ち出すのもどうであろうか。
また昭和26年に、国民への言葉のなかで、この戦争への「反省」の部分を、当時の首相吉田茂に、「いまさら戦争のことを言ってもしょうがないから、削除した方がいい」と言われて、また、田島氏も削除に賛成したとして、結局削除したとか。この「資料」はこれから学者などによって分析させるのだろうが、そのなかには、『昭和天皇』著者の、吉田裕氏も含まれているのだが。さあ、どうですかね。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/about-diary-01.html
【詩】「惑星の名前できみを呼ぼう」 [詩]
「惑星の名前できみを呼ぼう」
今では
雨が降っても
簑を着るひとはいない。
湿った藁の感触を
思い出すひとはいない。
宇宙最速の
光さえも出られない
穴
かすかに
きみの寝息が聞こえる
きみの出自
きみの記憶
きみの知識
きみの教養
のなかに、
湿った藁はあって
ロシアより愛をこめて
きみは私あてに
手紙ではなく
ひとを介して伝言する
その男に、きみはこういうはずだ
伝えてくれ彼女に
「ロシアより愛をこめて」と。
その男は苦笑いもせず
小さくうなずく
帰ったら
そう妻に伝えるよ
湿った藁を共有する私たち
愛なんて湿った……
湿った?
私は人混みを歩きながら
きみの寝息を思い出している
光さえも出られない?
けれどぼくたちの
愛は出られる
激しく泣く代わりに
惑星の名前できみを呼ぼう
【DVD】『ラ・ジュテ 』──本作を見たらゴダールはオワコン(★★★★★) [映画]
『ラ・ジュテ』( クリス・マルケル監督、1962年、原題『LA JETEE』)
ドキュメンタリーでありながら、想像力を刺激された『ベトナムから遠く離れて』を、確か渋谷の映画館のなにかの特集で見て以来、このクリス・マルケル監督の、『ラ・ジュテ』(1962年)が見たくなり、DVDを購入して、しばらくおいてあった。見る機会を逸していたのだが、今こそ、その時と思い、帰省につれてきて、いま見終わったばかりである。Yahoo!レビューの「最新」は、去年の夏である。しかし、いま、2019年8月に見るにふさわしい内容であった。
本作は、静止画、スチール写真のみで成り立っているが、一瞬だけ動く場面がある。それは、主人公の記憶のなかの女性の目覚めた時の瞬きである。
スチール写真は、一枚一場面といっていい。簡単なカットではない。かなり手が込んでいる。第三次世界大戦後の、廃虚のパリ。人々は地下でしか生活できない。まさに、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の実験が行われる。知的想像力を持っている者が選ばれ、時間旅行をさせる注射をされる──。
示唆的な語り。彼の記憶。記憶の剥奪。記憶の中の女。最後に、題名の、ラ・ジュテ、La jetée、飛行場の見送り台、で、その女を探す。見つける、女に走り寄ろうとする、そして、倒れる。それはその男の死の瞬間であった。そう、死ぬ時には、人生のすべてを思い出すと言われるが、それが、第三次世界大戦後なので、奇妙な人生、というより、時間を辿る。その中で、男は女に出会い、剥製動物の博物館などに行く。それらのセットがすべて精細に作られている。非凡なカットの数々。SF的想像力の奥深さ。テリー・ギリアム『12モンキーズ』は、本作がもとになっているという。
ゴダールの未来都市を描いた、『アルファヴィル』は、どうしようもない紋切り型、駄作であった。しかし、本作は、今見ても、少しも古さを感じさせない斬新な映像と、語りと、哲学に満ちている。おそらくゴダールやアラン・レネなどは、本作をパクッのだろう。それを許すかのように、『ベトナムから遠く離れて』では、ゴダールやルルーシュの映像を「編集」して、ひとつの作品に創り上げている。
われわれは、「第三次世界大戦」を「思い出す」べきであろう。そして、「夢さえ警察に監視される」事態から逃れるには、どうしたらいいか、考えるべきであろう。おそらくは、空港の見送り台で、一人の女(あるいは男)を探すこと。
【詩】「カラスが蝉を喰っている」 [詩]
「カラスが蝉を喰っている」
マンションの庭の林立する木立に、蝉が鳴き始めて久しい。じーじーじーと途切れなく続いているのだが、それが「ジジッ」と途切れるときがある。一度見たことがあるが、カラスが蝉を、パクッとやっているのである。蝉は喰われる寸前でも、「ジジッ」と「声」を出す。油蝉の唐揚げ、などというイメージを思い浮かべる。いまは、ニイニイ、アブラ、クマ蝉、秋に入ると、ヒグラシになる。どんな味なのだろうか? 自然は残酷だな──。
ときに、松尾桃青こと、はせを、こと、若き日の芭蕉の主人にして「恋人」の俳号には、蝉がついていたような……
そんなことも思い出した
夏のある日だ
アシモフ曰く、
永遠は終わる
宇宙は裏返り、満たされる
エントロピーの
今日の引用 [哲学]
【今日の引用】
「人生観などというものも昨今ではイデオロギーの類に堕しているのであって、このイデオロギーはすでにその名に値する生など存在しないのに、その点について人を欺いているのである。」(テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』三光長治訳、法政大学出版局)
Der Blick aufs Lieben ist übergegangen in die Ideologie, die darüber betürgt, daß es Keines mehr gibt.(Adorno "Minima Moralia" Suhrkamp)
【エッセイ】「年々バカが増えていることを愁えるこの記念日」 [歴史]
「年々バカが増えていることを愁えるこの記念日」
どこかのバカが某有名人の文章の、「無断シェア」ではなく、「無断引用」をしていた。なんでも、広島原爆は、アメリカの戦争犯罪だとか。この文章には、戦争犯罪なる言葉の意味をはき違え、かつ事実誤認もはなはだしいものが含まれている。
第一、戦争にはルールがあって、この場合、被爆国は、それを避ける術があった。それは、戦争の終結かつ、全面降伏である。これをする権限は、当時の昭和天皇にあったことは、吉田裕著『昭和天皇』に述べられている。日本が原爆をも含む、被害に遭うことは、予想できた。しかし、「あえて」それをしなかったのは、昭和天皇が、臣民は自分のために死んで当然という、「帝王教育」を受けていたからだ。ただ、それだけのことである。ゆえに、戦争犯罪にあたるのは、昭和天皇ということになる。
そういうことも想像できないバカが、ただ有名人と表面的につながって、自分がごたいそうな存在であると思い込んでいる、SNSの「お友だち」という「フィクション」を愁えるばかりである。
【本】The Portable Hannah Arendt(Edited with an Introduction by Peter Baehr)Penguin Books 2000) [Book]
The Portable Hannah Arendt(Edited with an Introduction by Peter Baehr)Penguin Books 2000)
「ハンナ・アーレント・ハンドブック」
本書は2013年11月、ロンドン一大きな書店、Foylesで購入。この書店は、各本棚に書店員の手書きのレビューが付けられていて、買う気をそそる。丸谷才一の『ロンドンで本を読む』をマネしたのである(笑)が、なぜか、このたびのわが国の参院選結果から、アーレントの、「悪の凡庸さ」を思い出したのである。
本書は、「アーレント入門書」とでも言ったらいいだろうか、彼女の著作(レポートを含む)の抜粋が、7章に分けられている。それぞれの章にはタイトルが付いて、映画『ハンナ・アーレント』にもなった、元ナチのSSのアイヒマン裁判の傍聴記で、ニューヨーカー誌依頼のレポートの抜粋が載っている第5章は、
「Banality and Conscience : The Eichmann Trial and its Implications」(凡庸さと良心 :アイヒマン裁判とその影響)というタイトルになっている。
問題のレポートのタイトルは、Eichmann in Jerusalem である。5回ほどの傍聴記の抜粋である。
はじめ、アイヒマンは、党のリーダーを警護するガードマンのつもりで応募し、それがやがて、ユダヤ系のメディアなどの情報をファイルする仕事に、そして警察と統合され、秘密警察になっていく。組織が改編され、党員さえも監視する組織となる。
それらを具体的に順を追って記している。そこにはどこにも、はっきりとした「悪」はないかのように見える──。
こうした状況が、いまの自民党から思い浮かんだのである。
映画も2013年あたりに見ているが、ただただ、煙草を吸い続けるアーレント(バーバラ・スコヴァ)が印象強く、不屈の闘志も感じられたが、「悪の凡庸さ」を、説得力のあるように、描き切れていたかどうかはわからない。ブログの履歴を調べたが、この映画については、レビューを書いていない。