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『マーウェン』──バック・トゥ・ザ・フューチャー with 人形(★★★★★) [映画レビュー]

『マーウェン』(ロバート・ゼメキス監督、 2018年、原作『WELCOME TO MARWEN』)

 

 よくできている映画なのだが、大ヒットははなから難しい映画でもある。なんせ、大半は「人形」が「演技」している。状況設定も複雑である。事実をもとにしているが、事実でもなければ、こんな入り組んだストーリーは不可能だろう。

 第二次世界大戦中に、ベルギーだかのある村で、ナチの五人組に襲われたアメリカ人の大尉が、拷問されて体も心も壊れてしまった。記憶も壊れ、アルバムを見て、結婚していたらしいこと、優秀なイラストレーターらしいことがわかる。自分の名前を書くのがやっとの手では、イラストレーターに戻ることは不可能である。そこで、フィギュアを使って、過去のできごとを再現し、それをカメラに収めることを思いつく。そして、個展なども開き、カメラマンとして成功する。しかし──。

 村を再現し、実在の人物を人形たちで置き換えていくうち、かつての悪夢が蘇り、現実と幻想と夢が入り混じる。PTSDは治らないどころか、悪化するような感もある。拷問したナチどもを断罪する裁判の証人になることを求められているが、それも出席できるかどうかわからないほど、精神は傷を露呈し、本人は悩みを深くする。しかし──。

 それは、周囲のやさしい女たち、ことに、フュギュア店の店員、隣りに引っ越して来た女性によって癒されていく。そのほか、ボランティアのヘルパー、リハビリ師、すべて女性であるが、彼女たちをすべて人形に置き換え、過去の場面を再現し、それを写真に撮る。家には、PTSDの化身ともいうべき魔女が時計のなかにいて、彼の悪夢を司る。

 かつてのNHKの「ブー・フー・ウー」(って古すぎるか(笑))のように、実際の演技は着ぐるみ(本作では、特殊メイクした俳優)がして、いざ「箱にしまう時」は、ほんものの人形になる。それにしても、フィギュア店には、将軍の勲章や武器など、実際のものでないものはないぐらい置かれている。こういうデティールがすごい。しかし、いずれ、デティールに回収されていって、映画の規模も縮小されていくかのようだ。そこんとこが、難しい。カメレオン俳優、スティーブ・カレルの独壇場もってしなければ、リアルな人間ドラマに観客を引きずり込めないかもしれない。しかし──。

 これは、ゼメキスお得意の、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」であり、「未来に戻ること」によって、PTSDは克服されていくかのようである。その際の「道具」は、デロリアン号ではなく、お人形たちである。おセンチで古くさい音楽がちょっと興ざめではあった。がしかし、時代の表現としてはいたしかたないか。題名の「マーウェン」とは、二人の人間の名前をくっつけて作った、架空の村の名前である。



 


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『新聞記者』──安倍という言葉を出さなければ絵に描いた餅(★★★) [映画レビュー]

『新聞記者』 ( 藤井道人監督、2019年)

 

 すでにマスコミで報道された、国民の誰もが知っている「スキャンダル」に想像を加え、官僚の世界を描きながら、暗にその陰には政府があり、それは「上」という言葉で表現されているのみである。

 題名通り、新聞記者の仕事を描いているが、その現場の様子は、紋切り型である。だいたい、新聞記者なんて、新聞社の社員にすぎないのだから、いくら正義感を持っても、できることなどかぎられている。ま、日本のジャーナリズム界ではね。イギリスのジャーナリズム界は、もっと力を持っていて、プーチンの野望を追い、すべて実名で、本を出した、特ダネをよく出している「ガーディアン紙」のモスクワ支局長がいる。

 そう、もし少しでも、現政府なりを告発したいという目的があるなら、フィクショナルな状況、役名を使っても意味がない。すべて実名でなければ。そのとき、作り手の気概も、安倍政権の反応も、少しは見えるのではないか。

 アメリカ映画ではすでにそれはあたりまえのお約束になっているので、トランプ告発でも、ニクソンでも、それから、最近の、サダム・フセインのイランが大量破壊兵器を持っているという「ねつ造事件」を題材にし、「大手」ではない新聞社の新聞記者がそれを暴いた映画でも、すべて「実名」であり、起こったできごとは、「勝手に変えられていない」。それは、このテの、映画、小説の、たとえエンターテインメントとはいえ、お約束である。それを、井上靖ははずしてしまった。それを、大岡昇平は告発している。それと同様に、本作も、「政権の悪」を描きながら、「似たような事件」に尾ひれをつけてしまって、文字通り、ミソクソにしている。これではダメだ。スピルバーグのような超一流と比べると、エンターテインメントとしても、かなりレベルが落ちる(ペンタゴンペーパーという事実は変えず、人物の造詣と構成で、エンタメを形づくっている)。当然、安倍政権は痛くも痒くもない。

 だた、評価できるのは、主役の女性新聞記者を、韓国女優のシム・ウンギョンにしたことで、彼女の持ち味の生硬さが、新聞記者という仕事のリアルさを表現し得ている。日本人俳優とは、演技の質がまるでちがう。それから、松坂桃李以外は、ほとんど顔が知られていない俳優を使い(海外では、国内ではおなじみの俳優も知られていないと思うが(笑))、淡いブルーグレイを基調とした「背景」とともに、ストイックな雰囲気が出て、やはりリアルさを出すのに成功している。それで多くの観客が騙されてしまったのか(笑)?

 さらに言えば、映画で、「新しい情報」を出さなければ、学芸会の域を超えるのは難しい。


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『ゴールデン・リバー』──センスよければすべてよし?(笑)(★★★★)(ネタバレ) [映画レビュー]

『ゴールデン・リバー 』(ジャック・オーディアール監督、2018年、原題『THE SISTERS BROTHERS』)

 


 あのひと、ルトガー・ハウアーに似てるという場面(今から考えると、どういう場面だったか、思い出せない(笑))があり、出演者をYahoo!映画で見ると、やはり、ルトガーさま、だった! 御年75歳(涙←なんでー(笑)?)、かつてのアンドロイド俳優も、エルマノ・オルミ監督、『聖なる酔っぱらいの伝説』で、名演を見せたものの、監督、役柄、(おそらく)マネージメントに恵まれず、オランダ人という「ハンディ」もあってか、こんな映画の脇役(もっと以下?)に落ちぶれ果てていた……。あ、映画と全然関係ありませんね(爆)。


 


 本作ですが、いやー私は、おフランス人(監督)が何を考えているかは、まったくわかりませんね。ついでに、ベネチア映画祭の選考委員たちも。まー、おフランス人、イタリア人というのは、「雰囲気」で思考してますね。「雰囲気」は、それなり、「脱構築ウェスタン」なんですが、かなり違うものとなってます。だいたい、フランス人とウェスタンというのは、相容れない概念である(笑)。そういう映画ではなく、なんつーか、原題(『シスターズ(名字)ブラザーズ(兄弟)というシャレみたいな題名)どおり、兄弟のハナシなんですね。荒くれの殺し屋兄弟が、「提督」(ゴールデンラッシュ時代の土地の支配者)の命令で、「化学者」を追う。それを「見張る」者がいる。という四人の図式。


 


「化学者」は、いちいち川を「さらって」砂金を探さなくても、川の水にある物質を投入して黄金を「浮かび上がらせる」薬品の化学式を発明している──。


 


 ほぼ焦点は四人にあたり、ウェスタンにはあるまじきアップ多様で、舞台劇のような作りになっており、四人の俳優の演技合戦なのであるが、最後、殺し屋兄弟が、「ママ(実母)」の住んでる実家に戻り、ママの手料理やらなにやらで慰められ、しあわせに暮らしました〜(たとえ一時的でも)、そういうハナシになっているので、お口あんぐりでした。だから、「シスターズ兄弟」という原題がぴったりなのに、「ゴールデン・リバー」なる、さも、ゴールドラッシュのウェスタンであるかのように「偽装」していますね、客を呼ぶために。


 


 四人のおもな人物では、美形フェニックス、ギレンホール、華奢な化学者役のアーメッドのなかで、ひときわ無骨ででかく、ブオトコ(なんでフェニックスと兄弟?)のジョン・C・ライリーが、いちばん、かっこよくすてきに見える作りになってます。さすが、おフランス人(監督)(爆)!


 


 最後のクレジットが、音楽もセンス抜群で、そうか、そういう映画だったのかと思わせ、センスがよければすべてよし、の世界かな?と……(笑)。おそらく、ベネチア映画祭銀獅子賞は、このおかげと思われる。



 


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『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』──ジェイク・ギレンホールの映画でした(★★★★★) [映画レビュー]

『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム 』(ジョン・ワッツ監督、2019年、原題『SPIDER-MAN: FAR FROM HOME』)

 

 いやー、ジェイク見たさに行って、「案内」には名前がちっこくしか出てないので、ほんとうに出るのか心配してましたが(笑)、どうも「わざと」みたいでした。まー、ジェイクがいないとこのオハナシは成立しないし、「実物」は22歳(脱ぐとわかる(笑))かもしれないけど、一応16歳の少年が主役では、なんとなく、おとなは満足できなさそう──。そこはジェイクが、「しっかり」でっかいお目々でがんばってます。

 

 物語は、もう、アメコミだかなんだか、こういった題材が掃いて捨てるほどになってしまったアメリカ映画は、「おまとめ」をしていて、アイアンマン、アベンジャーズ、Xメンと、よけいにごちゃごちゃしていますが、そうでもしないと、どうもオハナシがもたない(笑)?

 

 しかし、画像デザイン、編集センスは抜群で、ただのアメコミヒーロー映画ではもったいない感しきり。とくに、スパイダーマンのパーカーたちが修学旅行だかなんだか、先生に引率されていく旅先の、ヨーロッパの映像がリアルかつ洗練されていて、行ったことのない人は、ぜひ見て欲しい。というのも、建物なんかがそれらしくても、実際は、「空間」が違うんです。その「空間感」は、テレビなどでも、わからないんです。でも、この映画はがんばって、そこを感じさせてくれます。

 

 で、まあ、「ゴーストバスターズ」のゴーストと似たようなものが「出てしまって」(爆)ますが、ここんとこ、あえて、ネタバレしませんが、言わせてもらえば、「そういうことにしてしまったら」、今後このテの映画はもう「あり得なく」なってしまわないかな〜? って心配しています。

 

 そして、本作であるが、映画は続くよどこまでも、で、エンドロールのあとも、「そのあとも」、重要なシーンが、もれなく付いてますので、よろしく!



 


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『パピヨン』──リメイクというよりリニューアル(★★★★★) [映画レビュー]

『パピヨン』( マイケル・ノアー監督、2017年、原題『PAPILLON』)

 

 1973年作『パピヨン』を観ていなかったので、Amazonレンタルで前日に観て、本作に望んだ。オリジナルは2時間30分の長尺。リメイク版は、20分ほど短縮して、まさに、「余分だなー」と思えるシーンをカットしているが、ほぼ同じ脚本を使っているとみえる。カット割りなどもわりあい重なる部分がある。オリジナル版は、意外や「シブい」と思っていたマックィーンが若々しく、ジュード・ロウを思わせる甘ささえ漂わせている。そして、相手役のダスティン・ホフマンも、痩せていて、ナイーブな美形に見えた。

 

 本作もほぼ、オリジナルの2人を復元したと見た。しかし、主役のパピヨン、チャーリー・ハナムが、美形ですごくよいのである。実は、レミ・マレクを見にいったのだが、彼もそれなりに演技力を発揮してよかったのだが、こちらも当時のホフマンに似させていたが、やはり「パピヨン」役の引き立て役っぽい感じだったのは、ストーリーがストーリーだけにしかたがないだろう。そういう意味では、『ボヘミアン・ラプソディ』で「爆発」後、よく抑えのきいた演技をしていたなと思う。

 

 さて、では、映画全体はどうかといえば、余分な部分をカットし、細部を変えたことで、テーマ全体が変わっているのである。これは、胸に蝶の入れ墨のある無実の脱獄囚のヒーロー物語ではなく、フランスという、監獄ハイブランド国(笑)の、最も残酷だと言われる、ギアナに作られた「流刑地」の告発映画なのである。『鉄仮面』とか『レ・ミレゼラブル』とか、監獄は、おフランスの名物のようである。なんと第二次世界大戦の時代に、そんな場所があったのか、である。そこから、辛くも脱出した男が、作家になり、歴史に残さねばと書いたのが、『パピヨン』である、と、「あらためて」言っている映画になっていたのである。




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『主戦場』──妖怪大図鑑(★★★★★) [映画レビュー]

『主戦場 』( ミキ・デザキ監督、2018年、原題『SHUSENJO: THE MAIN BATTLEGROUND OF THE COMFORT WOMEN ISSUE』)

 

「ヨーロッパに一匹の妖怪が徘徊している。コミュニズムという妖怪が」

 

 と、マルクスは、『コミュニスト宣言』(1848年『共産党宣言』という訳もあるが、「党」をイメージさせる内容ではないという筑摩書房版採用)の冒頭で書いたが、まさに、世界には今、レイシズムという妖怪が跋扈していて、それは、思想的には、一匹だが、その「分身」を見るなら無数にいる。その妖怪を並べてみせた、妖怪図鑑である。

 

 妖怪は妖怪、右翼の名前には値しない。さあ、どんな妖怪から攻めていこうか。まず、CIAなどが日本を支配するため、戦犯を首相にしてしまった、その妖怪、岸信介。その孫で、祖父の思想をまんま受け継ぎたいと思っている安倍晋三。インタビューされてはいなかったが、なんとなく、カメオ的に、口を曲げたまま国会で居眠りしているのが映し出された、麻生……下の名忘れた(爆)。歯並びがガチャガチャのブス、杉田水脈とかいう妖怪は、奴隷とは、鎖で繋がれて動けなくさせられた人間のみを指すような解釈を滔々と披露。櫻井和服妖怪。あと、眉毛を細くしている男の妖怪。自称歴史学者妖怪。……などなど、それにしても、ケント・ギルバートって、(アメリカ映画のインタビューだからしょうがないにしても)日本語力はそれほどなかったのか? アメリカでは弁護士で、日本ではテレビタレントだって(爆)。この妖怪は、金のためなら、中国へ行って、シュウキンペイバンザーイ!てなことも平気でやるだろう。

 

 どーでもええが、これらの妖怪どもはアタマが悪すぎる。だいたい、戦争当時に、まともに、メディアが機能しているわけがない。負けそうな戦争だって、「わが軍快進撃!」なんて平気で載せていたのだから。そんな、兵士の性欲のはけ口としての慰安所の真実の「記録」なんか、まず、あるはずないと考える方がまっとうでは? 本作のテーマは、「慰安婦」でしたが、それを辿って、「日本の極右政権」があぶり出された。日本の方が技術が進んでるから、中国はやっかんで……みたいな発言を平気している妖怪がいたが、それは違っている。中国はスパイをアメリカに送り込んで、日本を超える技術力は持っているでしょう。軍歌もろくに知らない新世代の自称右翼(ネトウヨなど)が、これらの妖怪のいうことを信じ切ってしまうのも、ネットがもたらした深刻な弊害のひとつだろう。

 それにしても、アメリカの、ただのジジイで、「ユーチューバー」の、かつての西村晃みたいなジジイの妄想みたいな発言をなんでまともに受けとめねばならんのだろう? しかしね、こんなのは序の口です。妖怪の真打ちは→「ホロコーストはなかった」、と言ってますからね。収容所跡地も、克明な写真も、膨大なサバイバーの証言もあるのにね。

 こういう映画は、いくら日本の政治がテーマとはいえ、アメリカでなければできないだろう。平板に流れがちな、インタビュー中心の地味なフィルムを、和太鼓のBGMで、味つけしたのは、すばらしい。






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『メン・イン・ブラック:インターナショナル』──ま〜つりだ、まつりだ♪(★★★★★) [映画レビュー]

『メン・イン・ブラック:インターナショナル』( F・ゲイリー・グレイ監督、 2019年、原題『MEN IN BLACK INTERNATIONAL』)

 

 だいたい映画に何を期待して行くかと言えば、役者である。どんなにすばらしい脚本、演出も、役者がダメならダメになるし、役者を見いだし得なかったら、もう成立しない。その点を、よく呑み込んでいるのが、スピルバーグも制作総指揮に加わる本作である。私は第一作と、第四作である本作して観ていないが、今回観ようと思ったのは、キャストのためである。まず、クリス・ヘムズワース。捕鯨の時代モノ(笑)では、ただの美丈夫と思ったが、女たちだけの『ゴーストバスターズ』では、そのうるさ型女たちに雇われる、イケメン電話番。おちゃらけ踊りまで披露して、新キャラ開拓と見たが、本作では、そのキャラをさらに深めている。よく見れば、超いい男である。ワルモノの、元カノの要塞に乗り込むのに、ピンクのズボンを穿いていく。これがよく似合う(笑)。顔も美しいが、体のラインがこれまたすばらしいのである。これで、おとぼけテキトーできる男を演じるのだから、たまらない。この敏腕エージェントの彼の相棒の新人エージェントを、ヘムズワースとは実は同い年の36歳ながら、小柄かつ童顔ゆえか若く見える、黒人テッサ・トンプソン。色を売らない、知的な雰囲気が新しく、監督のF・ゲイリー・グレイも、黒人なので、このキャラクターは新しい黒人女優像として期待がもてる。とくに頭抜けて美人でもスタイルがよいわけでもないが、どこか魅力的である。

 上司には、エマ・トンプソン、リーアム・ニーソンを揃え、かつ、ヘムズワースの元カノにして、チョー悪女で、往年の緑魔子、奥村チヨを思わせる髪型で、多少美貌を隠しぎみの、レベッカ・ファーガソン。かてて加えて、宇宙人どものキャラもたっていて、まあ、ストーリーはテキトーながら(笑)、満足感がある。まー、オトーサン、オカーサン、そんなに目くじらたてるこたあないじゃないの、ってな、映画。

 本作の「隠れた主役」は、当然、ブラック・スーツである。ブラック・タイと白シャツも忘れずに。そして、サイズは、きっちり体に合っていること。




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『誰もがそれを知っている』──差別構造を浮かび上がらせるミステリー(★★★★★) [映画レビュー]

『誰もがそれを知っている』(アスガー・ファルハディ監督、2018年、原題『TODOS LO SABEN/EVERYBODY KNOWS』)

 

 ファルハディ監督の作品を、『彼女が消えた浜辺』(2009年)『別離』(2011年)『セールスマン』(2016年)と見てきたが、本作に一番近いのは、最初に高い評価を得た、『彼女が消えた浜辺』だろう。本作の場合、できがよいとは言えない本格推理仕立てとなっているが、根底にあるのは、社会の差別構造である。私は、チェーホフの『桜の園』を思い出していた。すなわち、農奴を抱えた封建制が崩壊し、ラネーフスカヤ夫人の荘園は、農奴のロパーヒンが買っていた。そうとも知らないブルジョワ一家は、ロパーヒンと親しくつきあいながらも、農奴あがりの従僕であることになんの疑いも抱かない──。本作でも、一家の家長の父親が、葡萄農園を持って、ワイン醸造家として成功しているパコ(ハビエル・バルデム)に向かって、「おまえはうちの使用人だった」という言葉を何度も放ち、かつ、安い値段で自分の土地を買ったと言い張る。

 そんな父親の娘が、嫁ぎ先のアルゼンチンから子どもを連れて、妹の結婚式のために帰ってくる。そのラウラ(ペネロペ・クルス)はパコと幼なじみで、もと恋人同士であった。三女の結婚式の夜、ラウラの娘の16歳のイレーネが誘拐され、莫大な身代金を要求される。以前の似たような事件では、被害者の少女は殺害され、その新聞記事が、イレーネのベッドに置いてあった。ゆえに、一家は、すぐに警察に届けず、身代金を作ろうとするが、すでに一家にはブルジョワの実質はない。そこで、身分が下でも、実業家であるパコに頼ろうとする──。

 すでにタイトルに半分現れているように、ミステリーの筋書きは、ほぼ「予想通り」に進む。ここでは、派手な容貌で、派手な作品に出ていた、実際の夫婦、ハビエル・バルデムとペネロペ・クルスの抑えた演技(クルスは誘拐された娘を慮って泣きわめくが、それは派手な演技とは違う)が、スペイン社会のリアルを浮かび上がらせる。しかも、すべての「一家」のキャラクターをきめ細かく描いている。ペネロペを二女に、長女、三女の、それぞれの配偶者や子どもまで。ざわざわとした大家族の、土や草、木の匂いが伝わってくる。

 映画の筋書きとして、犯人は観客に明かされるが、物語のなかでは最後まで明かされず、長女のみがうすうすと気づき、それを夫に語ろうとするところで、映画は突然幕を閉じる。哀惜を帯びた声の歌が流れようと流れまいと、ファルハディ監督のスタイルは変わらない。紋切り型のミステリーから観客を解放する。

 

 


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『ベン・イズ・バック』──トップを走る女優の最高峰(★★★★★) [映画レビュー]

『ベン・イズ・バック』(ピーター・ヘッジズ監督、2018年、原題『BEN IS BACK』)


 


 のっけから、ジュリア・ロバーツの演じる女は、「リベラル」であることを知らされる。というのも、ジュリアには、「黒人」の幼い男女の子どもがおり、養子なのかなと思っているとそうではなく、今の夫との間の子どもなのである。この一見黒人の子どもたちは、ハーフなのだろうが、「黒人色」が強い。再婚の夫は、黒人で、りっぱな紳士である。ジュリアには、19歳の息子と、その妹の、二人の「白人」の連れ子がいて、彼らの父は白人と知れるが、彼らは、まっとうな黒人の父に愛情を抱いている。そしてその父は、裕福で、理解も愛もある。そういう一家の息子は、ワルとは縁遠いだろうが、ケガの治療のために使われた鎮痛剤(名前はいろいろだが、麻薬性のものなのだろう)で、中毒になってしまう。完全に医療ミスなのである。しかし、中毒には変わりなく、息子がいかに、「墜ちて」いったかが、少しずつ、関わり合う人間たちによって知らされる。


 クリスマスの日、息子は更生施設を抜けだしてくる。良識派の夫と娘は不審感を抱くが、ジュリアは心から歓迎する。しかし、夫と話し合った末、施設に戻そうとするも、一日だけ、ジュリアの監視を離れないという条件で、息子は家に留まることを許され、一家はいっしょにクリスマスイブの日を過ごす。夜教会から一家が帰ってみると、自宅が荒らされ、飼い犬がいなくなっている──。


 ここから、ごく普通の、といってはおかしいが、悪い仲間との戦いが始まる。それは、どれでも似たようなケースで、更生しようとしている人間にまとわりつき、彼を愛する者をも巻き込む。そこで、ジュリアの活躍である。ど根性の母親といっても、誰にでもできる役ではない。ジュリアだからできる役なのである。そう、あの、ごくフツーというより、やや下流の子持ち女が、水質汚染を暴く、『エリン・ブロコビッチ』を思い出す。ジュリア・ロバーツは、それほど学歴のある役はやったことがないような気がする。しかし、いつも、世界を変えて見せる。普通の主婦であり、母親が、堂々、ヤクの組織と戦うのは、胸がすく。ジュリアはそういう役をやってきた。群を抜く演技力と美貌で、女優のトップを走ってきた。その彼女が、「キャリアの最高峰」と言われる役を演じた。そういう、作品である。


 


 


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『希望の灯り』──アレゴリー、キレてる音楽、生への苦い希望(★★★★★) [映画レビュー]

『希望の灯り 』(トーマス・ステューバー監督、2018年、原題『IN DEN GANGEN/IN THE AISLES』)

 

 主人公の青年、クリスティアンを演じるフランツ・ロゴフスキは、『未来を乗り換えた男』でも見た。ナイーブな表現ができる二枚目なのだろうが、ハリウッドやその周辺にいる俳優と比べると、違和感がある。欧米の自由主義諸国の俳優になじんだ者にとっては、無気味さといっていい雰囲気が漂う。これは、旧東ドイツの、さらにいえば、カフカの、ハイデガーの「顔」である。ほとんど演技を感じさせない微妙な表情は、まさに、ロゴフスキの出身地のフライブルグ、ハイデガーゆかりの地であるが、「存在と無」の表情なのである(?)。そして、彼が演じる世界は、そのほとんどの場面が、原題通りの「スーパーの通路」である。それも、さすがドイツ、われわれ日本人の見知っているスーパーマーケットとはずいぶん様相が違う。巨大なのである。クリスティアンは、飲み物部門の見習いとなるが、主な仕事は、フォークリフトで飲料のカートンを天井近くの棚まで運んだり、床近い棚に手作業でカートンを置くことであるが、とりわけリフトの運転がまだうまくない。ブルーノという先輩のオジサンがいろいろ教えてくれる。このブルーノは、ドイツ統一前は、長距離トラックの運転手をしていた。

 映画の中で、ショッキングなシーンは、いわゆる「生魚」が「買われるまで」「生かされ」、飼われている、満杯の水槽である。巨大な魚たちはアップアップしている。フォークリフトの上下する音といい、さすがにカフカ(チェコの作家ではあるが、ドイツ語で書いている)とハイデガーの国である、すばらしいアレゴリーを見せる。

 スーパーの上層部は映らず(こういうところは、カフカの『城』を思わせるが)、従業員たちだけの姿を描写する。西ドイツに吸収されるように「なくなってしまった」東ドイツ。けれどずっと「そこ」に住み続ける人々はいて、まさに水槽の中の魚のようにアップアップしている。

 すばらしくキレている現代的な音楽のなかに、これらの人々が、「希望」の方へ泳いでいこうとしているところ見せる。


 


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