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「私の三大恐怖映画」 [映画分析]

「私の三大恐怖映画」

 

1, 『サスペリア PART2 』(1975)

PROFONDO ROSSO/DEEP RED/THE HACHET MURDERS

監督ダリオ・アルジェント

 

 1977年の『サスペリア』とは、監督は同じながら、関連性はない。『サスペリア』以前の制作ながら、日本に入って来たのは、『サスペリア』ヒット以後ゆえか、このようなタイトルになっている。

なにが怖いって、主人公(ゆえに、われわれ観客も)が事件を調査中に、犯人の顔を見ていること。それは壁に絵画だと思っていたものが実は鏡で、そこに犯人の顔があった、と気づく怖さ。

『サスペリア』じたいのリメイクが最近公開されているが、予告篇を見るかぎり、ティルダ・スティントンの存在自体すでにしてホラーなので、展開は知れていると見た(笑)。

 

2,『アザーズ』 (2001)

THE OTHERS 監督アレハンドロ・アメナーバル

 

本作の同工異曲に、M・ナイト・シャマランの『シックスセンス』がある。

『シックス・センス』(The SiXTH SENSE, 1999)。恐怖映画ではないかもしれないが、設定は怖い。こうした状況の本質がホラーなのである。

 

3,シャイニング (1980)

THE SHINING 監督スタンリー・キューブリック

 

これが怖いのは、休館中のホテルに管理人として家族と住んでいる、売れない作家(?)のジャック・ニコルスンの妄想より、今のネット界で、これと同じ状況にあるのではないか?と思わせる人々が存在しているのを目撃することでもある。ユアン・マクレガー主演で、「続編」が撮られるようである。




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「映画『パンク侍、斬られて候』における、脚本宮藤官九郎のお手柄」 [映画分析]

 宮藤官九郎が属する劇団「大人計画」には二種の芝居があり、リーダーの松尾スズキ作・演出のものと、松尾が見出した役者だった、宮藤官九郎(クドカン)が作・演出の芝居と。後者の方がキレがあり、笑える率も高いのだが、どちらの芝居にも二人とも出ている。松尾の芝居はどこか暗く重いが、本来「大人計画」とは、松尾の芝居が基本となっている。

 

「役者」だった宮藤官九郎の才能を見出し、劇作や演出をやらせたのは松尾である。

 クドカンの芝居の特徴は、「現実に取材している」ことである。たとえば、ある芝居では、芸能界の裏話がストーリーになっていて、北島三郎邸への「新年の挨拶の様子」が、福助人形の大から極小まで、いくつものサイズを台の上に並べて説明し、北島三郎自身から近い順に、大きい人形から小さい人形へと、「北島三郎から見た大きさ」になっていて、部屋の入り口付近の人間は、家のあるじの北島からは、小さくしか見えない(笑)。こんなどうでもいいようなディテールがけっこうリアルで、これは、職業柄、実際に聞いたり見たりしたことを織り込んでいるなということがわかり、それが彼の脚本などの人気ではないかと思われる。

 今回、映画『パンク侍、斬られて候』で、脚本「だけ」を担当したのだが、町田康の原作を読むと、たしかに、「腹ふり病」(「お伊勢参り」のような一種の「憑き」状態で、民衆が狂信的に腹を出して踊り出す。その「思想」は、この世界はサナダムシの体内にあり、どんな希望も叶わない。そのサナダムシの肛門から出ていくことが救いであると信じ、両腕を左右平行に伸ばして腹を揺すって踊りまくる)などが出てくるのだが、ただ平板に書き流されているだけである。この十数年前の連載小説(マガジンハウス系雑誌)を、「今の人々の精神状態」に転化させて表現しているのがクドカンの手柄と言えるだろう。

 考えてみれば、いるいる……である(笑)。「腹ふり病」にかかった人々……そして、彼らの蔓延によって世界は滅びていく──。

 そう、あのヒトも、このヒトも……。クドカンの脚本のおかげで、いまの世界をまんま描いてしまった映画ではあったナと思う。ただ、監督がどこまでそれを理解していたのかは、疑問であるが。


 


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『君の名前で僕を呼んで』分析 [映画分析]

『君の名前で僕を呼んで』分析。

 

 

映画というのは、実は映画館に俳優を見にいくんですね。もちろん、その俳優とて生身の人間だから、実生活は、フツーの人と変わりがあるはずがない。しかし俳優という職業は、訓練によって肉体を作り、また演技術もマスターします。そしてそのうえで、その人の生活史も透けて見える。そういう意味で、アメリカの俳優は実によく訓練されている。演技術のもとになっているのは、いろいろな「メソッド」があるなかで、ロシアのスタニスラフスキーという演出家が構築した、「スタニスラフスキー・システム」ではないかと思う。これは、実際に、自分の肉体を、演じる人物にまで、内面ともどももっていく。私も、少しは訓練の入り口を大学で学んだが、自己暗示によって、存在しないコップを握りしめている「つもりに」なるまで気持ちを持っていくと、実際、手の形もそのようになっているといもの。簡単にいえば、「なりきり」。それをいつでもできるようにする。

『君の名前で僕を呼んで』ででは、31歳ぐらいのアーミー・ハマー(現実は愛妻家の真面目な二児の父(笑))が、24歳の大学院生を演じている。体もだいぶウェイトを落としていると思う。相手役の、ティモシー・シャラメーも、実際には、22歳の成人で、17歳の役をやるためには、だいぶ脂肪を落としていると見た。そして、彼らが、いかにも現実に、上流階級の多感な少年や、教養豊かで魅力的な大学院生がそこに存在しているかに見えたとしたら、それは彼らの演技術が洗練されていることの証左なのだ。

とくに、アーミー・ハマーの「美」と、自然な動きは、すばらしいものであったと思う。彼は事実、美術館を所有する一族の子息だと聞いた。そういう育ちのよさも出ているのだろう。

この映画の魅力は、今から35年まえの北イタリアの保養地で、しばらしい太陽、自然、などが溶けているなかで、ある感情的なやりとりがあり、また、古代ギリシア、ローマ美術などの文化にも言及され、実際の発掘(地中海の中から)の様子などが、まるで空気のように、主人公たちの生活に入り込んでいる。少年の両親は教養があり、別荘だか邸宅には果樹園があり、桃や杏がたわわに実っている──。こうした生活が現実にあり得たかどうかはわからない。ただ、われわれ観客は、そうした生活を疑似体験する。そこに、ある種のあこがれを抱く。映画にはそういう魅力がある。

一方、Yahoo!などの映画サイトがあり、そこでは、星の個数で評価することが慣習としてある。それは、ただの、未見の客が映画を選ぶ際の、目安としてのサービスである。レビューを書く習慣があると、ついつい星をつけてしまう。しかし、この星は、気分しだいでどうになる(笑)。

なにも絶対的なことなどない。映画は山ほどあり、好きなのを見て、楽しめばいいのである。あとで評価が高くなるのもあるし、下がるのもある。そういうエンターテインメントなのだ。

なにをどう見て、どう評価して、どう言おうと自由なのだ。

カレーライスのすきな人が、お寿司を食べないからと言って、文句をいうのはスジ違いだ。

 


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映画『メッセージ』で印象に残った言葉 [映画分析]

non-zero-sum game
 
自分の利益だけで行動すると全体がうまくゆかなくなる。ゆえに、一人一人が他者のことも考えて行動した方が全体もよくなるという考え方。



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祝!アカデミー賞! [映画分析]

『ラ・ラ・ランド』が監督賞、主演女優賞を獲得!


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【映画分析】 『永い言い訳』──「愛されないためにそこにいる」 [映画分析]

 


  美容師の妻が親友とスキーツアーに行って、そのバス事故で突然死んで、作家の夫はその最中に若い女と、妻のベッドでセックスをしていた。そういう「事件」をきっかけに、夫は自分でも予想外な生を生きることになる──。


 映画はおもに、作家である夫の「その後」の生活を、その「内面の表出」とともに描いている。そこには、大きな比重で、妻の親友の、同じく「遺された夫」、男女二人の子ども(小学六年と幼稚園?)が関わってくる。トラック運転手という職業のために子どもの世話を十分できない「妻の親友の夫」のために、「作家」という自由業である主人公は、ある時間、子どもを見てやることにし、その生活のなかで、自分を見つめ直す。


 さまざまな疑問が浮かんで来る。まず、この夫婦は、「愛してなかった」ということを口したり、ダイイングメッセージとして残したり(妻)するが、そうやって、口に出したり文章にしたりすれば、ほんとうに愛してなかったことになるのか? この夫婦の、「愛する」とは、どういう意味なのか? 


 映画から私が感じた範囲では、どうも恋愛的な愛、男女の愛であるような気がする。もし他者に与える人間的な愛もなかったとなると、妻は親友の家族と心を許したつきあいはできないだろうし、夫は夫で、その家族、とくに二人の子どもに親身になることはできないだろう。この夫婦は、それぞれの場面では、りっぱに他者に打ち解け、心配りができているのだから、人間としての愛がないとは言えない。そういう人間が、いくら恋愛的な愛がないとはいえ、長年いっしょに暮らした相手が、バス転落事故で、肉体に激しい損傷を受けるような死に方をしたら、思考はもっと違う方、根源的な、人間とは? という方向に行き、たとえ「愛してなかった」としても、そうした形で人生を中断されてしまった人間に対して、なんらかの同情が芽生えるのが普通ではないかと考える。人間愛の方へ行くのが普通だと思う。しかも、愛とは、愛するとは、ということは、この映画の中では、いとも簡単な感情のように扱われているが、ほんとうは、もっと複雑で微妙なものだと思う。


 映画は、そのあたりを、まったく無視して、ひたすら、妻を失った男の「再生」のみを描く。


 はあ? である。では、この妻なる女性の生とはなんだったのか? 「愛されない」ために存在したのか?


 映画では、申し分ない女性であるように見える深津絵里の、いったいどこを愛せないのか? もしかして、「家庭の事情で大学を中退し(主人公とは大学の同級生だったのだが)、次に出会った時には、美容師になっていた」女のキャリアが、今はテレビ出演などして、「先生、先生」とモテはやされる作家としての自分にふさわしくないと思ったのか。おそらくそんなことだろうということを、映画は冒頭で、多少は匂わせている。この妻の、真面目でダサい生き方が、作家にはかっこうわるく見えて、それで「愛せなかった」のかもしれない。


 妻は妻で、そんなことなどとうにわかっていて、復讐するかのように、死ぬ間際夫に、「愛してない、ひとかけらも」とメールするのだが、これは物語としては面白いかもしれないが、状況的にはとってつけたような感じがする。もし、そういうことが可能で、実際この妻が「人生最後のメッセージ」を、夫に、「愛してない」などと送ったとしたら、それは、悲しい彼女の生を表現したことにはならないか。私には、この妻は、夫を普通に愛していたと思うし、出会った時は無名でも、ついに有名作家となった夫をどこか自慢にも思っていたと思う。


 本作は、結局、心地よい映像、音楽はいいが、いったいなにを描きたかったのか、よくわからない映画となっている。人間としての魂を理解しないのなら、この監督は、今後、なにを描いても同じことになるような気がする。


 


 


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『バードマン』レビューの補記あるいは、分析 [映画分析]

 本作は、個人的にも好みの、というより、ほとんど自分の目ざしていることと近すぎて、いろいろ疑問が出てくる。いい映画ではある。それゆえ、時間をかけて考えてみたいと思う。

 

 たとえば、終盤、出番を控えた楽屋で、銃を出し、それに実弾である「マガジン」を充填した。銃は劇中の小道具であるが、ここで、リーガンが舞台の上で自殺を試みることが「示される」。それをさらに補強するかのように、幕の袖(そこから登場する)へと至る舞台裏の通路を歩いていくと、小道具係が、「何度も」、「リーガン、銃は?」と声をかける。リーガンは無視してすすむ。小道具の銃は受け取らない。実弾入りの「自前の銃」を持っているから。いよいよ、その場面、無価値のおのれの存在をののしりながら銃を出してこめかみにあてる……。バンッ!銃が発射されるが、(映画の中の)「暗転」となり、次には、リーガンは病院にいる。彼が「生きている」ことが「示される」。ここで、私は、「なんで?」と思った。では、あの「ほのめかし」なんだったのだ? 考えられることは、リーガンがおのれのこめかみを撃つ瞬間、気が変わって、銃を持った手をこめかみがら外した。それが遅れて自分の鼻を撃つことになり、「鼻を失った」。『ハングオーバー』のだらしないデブだったが、痩せて(笑)ヤリ手の弁護士となって登場しているザック・ガリフィアナキスが、「その鼻が気に入らなかったら、何度でもすきな鼻と替えるがいい」みたいなことを言われ、ついでに、「メグ・ライアンの整形医を紹介してもらうか」みたいな楽屋オチ的ギャグ(この映画には満載であるが)を言う。

 

 レイモンド・カーヴァーの作品「愛について語るとき我々の語ること」の舞台化であるが、登場人物の三人がテーブルを囲んでいて、そこに、リーガンの役が登場し、みたいなシーンが何度も繰り返される。芝居の全体は見せない。この場面と、ナオミ・ワッツとエドワード・ノートンがひとつベッドに寝ているところに、銃を持ったリーガンが登場し終局へと至る、このふたつの場面のみである。このあたりが、洗練されていると見る。つまり、素材としての芝居の場面は最小限に抑えられている。

 

 最後、顔の上部、つまり、バードマンの被り物をしているときちょうど隠れている部分と重なるが、その部分に銃の自殺未遂によるケガを保護している包帯というか絆創膏というか、白い当て布がされているが、ベッドから起き上がったリーガンは、鏡の前に行きそれをむしり取って、おのれの悲惨な顔をつくづく眺める。窓辺へ移動。窓をあけ、再び自殺の試み?と思わせる場面となる。そこから「飛び降りたかのような」印象を与えるシーン。娘のエマ・ストーンが花を活ける花瓶を持って戻ってくる。パパがいない。不審に思ってあちこち探し、窓が開いているのに気づき、不安な顔で近づく。窓の下を左右に探すエマ・ストーンの顔。やがて、視線は上の方へ向き、その表情のみで、リーガンがバードマンになって空を飛んでいるのだろうことが示される。ここは自然な動き、なめらかな表情の転換が必要とされるが、映画なら、編集でなんともなるので、とくに演技力は必要とされないかもしれないが、まあ、あの笑顔はそれなりの演技力ではあった。

 

 この映画について、「まるで切れ目なしに撮影されたかのような」ということが、「宣伝」もあるのだろうが、騒がれたが、いま、編集技術を高度になっているので、たとえそうであったとしても、そんなことをやっても意味のないことは監督自身がわかっているだろう。



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『十三人の刺客』分析 [映画分析]

 ほんとうは、『パリ、20区』を観たのだが、それはまたのちほど語るとして、さらに、『十三人の刺客』を分析してみたい。

 残虐城主に付き、彼を守り通している側近の、市村正親は、主人の行いをよかれと思っているわけではない。ときには、諌めてもみせる。しかし、武士とは主君に忠誠をつくすこと、が、市村の生のポリシーである以上、文字通り死ぬまで(笑)主人を支え続け、昔馴染みですらある、反逆者、役所広司と対立する。

 『十三人……』では、赤穂浪士のように、城主を討つことはそれほど極秘ではない。すでに市村は知っている。集められた刺客のメンバーもわかっている。秘密なのは、そういう動きではなく。「作戦」である。ゆえに、これは、「真珠湾攻撃」ではなく、堂々たる戦争である。また、革命でもある。

 作中、各所で、サムライとはなにかが問われる。市村は古いタイプの、というか、杓子定規にしか、サムライを考えられないタイプである。一方役所は、主人につくすと、いう忠義を、もっと人間的なものにつくすという、広義の、そして、高次のレベルへと考え抜いていく──。

 それを、CGを駆使することもいとわず、一大エンターテインメントとして表現したところに、本作のすばらしさがある。

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