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『ゴッホ最後の手紙』 [なんとなくエッセイ]

『ゴッホ 最後の手紙』は予告篇で観て、その製作方法はなかなかすごいと思いましたが、ドラマとしては、あまり関心を引かれません。なにより、アルトマン監督の『ゴッホ』(1990年)のゴッホ役、ティム・ロスが、ゴッホを思うと、すぐに浮かんで来るんです(笑)。それと、劇団民芸の、三好十郎作『炎の人』では、滝沢修がゴッホを演じ、耳を切り取るシーンは迫力がありました(といっても、高校生だったので、テレビの舞台中継でしたが)。弟のテオは、内藤武敏が演じ、この二人の交流が中心でした。あと、確か、黒沢の『夢』だったかでは、ゴッホをスコセッシが演じてましたね~。とにかく、麦わら帽子を被って、ひまわり畑で写生してたら、それは、ゴッホですね~(爆)。




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「売春やって詩集出すのが、それほどエラいか?」 [なんとなくエッセイ]

紹介します。売春(もっと「きれいな言い方」は、いくらもありますが(笑))を職業とされている女性が、男はみんな穴を狙っている、と「決めつけている」詩集ですが、男には、「穴」ないですかね(笑)?

『底辺女子』という本を読めば、「やむなく」売春をせざる人々もいるようです。また、バングラディシュでは、売春街が公になっていて、一生そこで過ごさなければならない女性たちもたくさんいるし、インドでは叔父にレイプされて妊娠した10歳の少女の中絶が認められません。売春をビジネスとして肯定されると、世界中の不幸な少女たちのためによくないです。それを根本から理解せず、「寄付してます」だと。

どこにも、詩集など出して、自分の職業から得られた感慨などをかきつけた、存外平凡な言葉を持ち上げる、オッサンたち(?)がいるのか。この女性は、はじめから上から目線の決めつけで、私がちょっとコメントしたら、「山下さんは詩集読んでないですよね?」だと。この「決めつけ」。それが、この詩集の著者のすべてです。

売春がそんなにエライのかね〜?(って、日本だけだろ、「好きで」売春やってるのは)

ちんw.jpg



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おフランスのAmazon [なんとなくエッセイ]

Amazon.frに注文した本が着かないんで、メールを書いたら、さっき電話がかかってきてしまった。長い間おフランス語をしゃべってないんで、アセったー。

 

****

 

Amazon.fr、この遅れ(6月23日に着くはずの本3冊)に対して、郵送費の、14.50ユーロを返却します、ということだった。文句は言ってみるものである。



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不謹慎とは [なんとなくエッセイ]

夫人を亡くしたばかりの海老蔵が子どもとお付きとディズニーにいるのを目撃されて、ブログに、「おまえらとはなんの関係もない赤の他人じゃん」(だから「不謹慎とか}口出すな!、と)

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170702-00000004-jct-soci

 

母を失った子どもを慰めるというより、子どもには、「死者を悼む」「喪に服す」ということを教えなければいけない。この人は「名優」なので、「大泣き場面」くらいの演技は朝飯前だとは思った。夫人が元気で存命なら「浮気」、お亡くなりになれば、「再婚」だと思う。

この「おまえらに関係ないじゃん」は、「こんな人たちには負けられない」「落とせるなら落としてみろ!」の「安倍ご一統さま」(自民党全体ではない)の精神構造とそっくりで、こういう人々が、どんな世界でも増えているんだろーなーと思うと、憂えますね。




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淑女ですけど、絶叫させていただきますワ。 [なんとなくエッセイ]

このブス〜!!!

ヤバいだろ、ヤバいだろ、ヤバいだろ〜!!!


(完全「お直し」顔)

https://youtu.be/Y-XWcRC_KP8





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マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ [なんとなくエッセイ]

 


ライカの乗った宇宙船は、最初から帰還を考慮されていない片道切符。エサは、10日間? 最後は安楽死用、毒入り。しかし、ライカは、ストレスで、発射7時間後に死んでいた。街で保護された犬だった。こんなことなら、まだ、保健所で、「ストレスなく」死んでいた方がマシだったという、すごい実験!しかも、これ自体、科学的には意味がなかった。関係者、関係国は、お犬さまに呪われろ!


 


http://funny-c.com/archives/3735/5



 


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大臣につけまつげは必要か? [なんとなくエッセイ]

稲田朋美防衛大臣が、シンガポールでの演説で、仏豪の女性大臣を見ながら、「われわれは共通点がある。同世代だし……グッドルッキング」とやって、「笑い」を取ろうとしたようだが、性差別発言と取られ(とくに海外メディア)、逆効果になってしまったことが話題になっている。

まあ、つけまつげもして、「それなりにがんばっておられるよう」であるが、自分で「グッドルッキング」と言ってしまったことは、弁護すれば(笑)、どうせ原稿は自分で書いたものではないだろうから、言えちゃったのでは? しかし、原稿を見ながらのこの演説と英語の発音の方が恥ずかしいような気もします。それにしても、「グッドルッキング」と言ったあと、受け狙いで笑ってみせたが、その笑いが、アジアの田舎のオバチャン丸出しで、これまた恥ずかし〜。名づけて、「安倍恥ずかし〜内閣」(笑)。

 

https://youtu.be/JIR3aGTASYc




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頽廃についてお話させていただきます [なんとなくエッセイ]

「頽廃についてお話させていただきます」

 

 朝4時過ぎにうちのわんこがお気に入りの樹木が多い公園にいってみると、中年女が、「犬も連れずにひとり」紙パックのジュースにストローをさしたのを手にして、ビニール傘を持って、奥の樹林の方角を見て立っていた。直後、白猫がすばやく通過したところをみると、その猫を見ていたのかもしれない。普通、犬連れでない人にはかかわらないようにしているから、何も言わずに近づくと、その人物が会釈したので、こちらも同じように返す。普通はそれで終わるが、「早いですね」と言葉をかけてきた。犬の散歩はどんな時間でもありうる。しかし、普通の人間が単独で早朝の公園(ベンチがひとつあるだけの傾斜になった樹林)で佇むのもひとにとやかく言われる筋合いはないかも知れない。

 この女は以前にも同時刻か、真夜中かに見かけた記憶がある。その時はものを言わなかった。はじめは、野良猫に餌を持ってくる、猫オバサンかな?と思ったが、そうでもないようだった。

 服装は、短時間に素早く観察したところ、グレーの上着様のものをはおっていたが、中の白いTシャツらしきものは薄汚れたような白で、乳首が浮いて見えていた。

 うちのわん太は、不審な人間がいると気分をそこねてその場ではうんこをしなくなるので、わん太はその人物を怪しみながらUターンした。しかし、そこはお気に入りのうんこ場所なので、数メートル行くとまた引き返した。その時には、すでに女の姿は見えず、「おーっほっほ」という声だけ聞こえ、姿は、樹林に目を凝らしてもまったく見えなかった。道路との境に置いてある石(腰かけにもなる)に、たたんだビニール傘が立てかけてあり、わん太は、しきりに、その傘とそのあたりの地面の臭いを嗅いでいる。あやしい、あやしい、あやしい、という感じである。

 たとえば、夫とケンカしたとかで、ひとりでへんな時間に公園に来てみることもあるだろう。しかし、その女はそんな感じでもなかった。ということは、主婦でも、まともな勤め人でもない感じ。水商売風のおしゃれをしているわけでもない。片手に持った紙パックジュースは、「余裕」である。早朝散歩の人はそこには立ち止まっていないだろう。会釈はしても話しかけないだろう。こちらが、「はい」とか「まあ」とか、テキトーにお茶を濁している間に、その女は、「(犬は)女の子ですか?」「かわいい。毛並みがきれい」と、具体的なセリフを一方的に数回吐いた。

 ウィッチ(魔女)のようなミステリアスな感じは皆無。

 

 せいぜい私が勘ぐることができるのは、その女は、いわゆる「ぱんぱん」。言葉は悪いが、その言葉を急に思わせるほど「地に墜ち」しかも「本人は傍目に、まだ気づかれないと、思い込んでいる」。「ぱんぱん」でなければ、「空き巣狙い」。

 

 大変失礼にあたる感想かもしれないが、印象は瞬時にやってくる。常識の出る幕はない。犬がくんくん怪しむように、まさに、動物的勘でしかない。

 その人物は感じが悪い態度はひとつもなかったが、それゆえ、「こんな時間に見知らぬ人間に愛想よくしてる場合かよ?」という一般人のまともな感覚が欠落している。つまり、おのれの頽廃にまったく気づかないか、あるいは気づいても、もう他の態度はあり得ないといった──。そのような頽廃が、わが国を覆っているようでもある。





「正鵠を射る」の「正鵠」とは、弓矢の的の中心のこと [なんとなくエッセイ]

【Facebookでのできごと】


 世間では、誤用が通用している表現など山ほどある。「正鵠を得る」もその一つだ。ネットで検索すれば、その意味しか書いてない。


 ナイトなんとかという横文字名(本人「俳号」と主張している(笑))の人が、「あなたのwikiペディア」みたいな「テスト」で、「自信家」とかなんとか、誰にもあてはまり、言われて悪くないような内容に、「的を得ている」などと書いて喜んでいたので、私は、「『的』は『射て』ください」と、「あえて」コメントした。普通は、言葉の間違いなど山ほどあるので、そんなことにいちいち目くじらなどたてていられないが、この人に関しては、書き込みの「有頂天度」(とでもいうのか(笑))がもともと気にいらなかったし、「俳句をやってます」のわりに、言葉遣いに、「ひどく」無頓着で、目に余るものがあったし、数年前に奥さまがお亡くなりになったと書かれていたが、そのわりに、「配偶者の死」の前と後で、そのバブリーな書き込み(あの店にいった、これをごちそうになった、「会合の前にビールをいただいていった」(一杯ひっかけていってもOKな会合って、どんな会合だ?笑)、あれをもらった……てな書き込みばかり。ちょいと、ナイトさんの記事は「食った、飲んだ、もらったばかりですね〜」と「あえて」イヤミをいうと、「自分はすごく辛い人生を送ってきたので、ネットでは楽しいことだけを書きたいんです」てなお答えだった。


「辛い人生」と、あえて自分で言うか(笑)?


 それでは、シリア難民や、ユダヤ人絶滅収容所の生き残りは、どうなるのか? そういう辛い経験が、人をまっとうにするのではないのか?


 ……とまあ、だいたい、その「人格」には前々から疑問を抱いていた。しかも、「偽名」で、「顔写真」もないのに、平然としている(「本人」が証明されていなければ、SNSの信用度は下がるのに)。だから、私は、「あえて」、ここが違ってると指摘したのだが、その答えは、


 「自分は『正鵠を得る』という意味で書いたんです」。それは、わかってるよ(笑)。その「正鵠を得る」が誤用なんだよ。調べもしないで、世間でみんな使ってるから正しいとの思い込み。しかも、「助っ人」まで現れて、「『正鵠を得る』って言いますよ」「そうですよね。ありがとう!」だと。ばあああか。


 なぜ、「正鵠」は、「射る」ものなのか? それは、「鵠」とはどういう意味か?を漢和辞典でもなんでも引いてみればわかる。「鵠」とは、弓矢の、「まと」のことである。そして、「正鵠」とは、その「まと」の「中心」のことである。出典は、「礼記」とか、あるらしいが。


 だから、誤用を誤用として使うのは、ジャーナリストみたいな人、本の著作家でもいる。しかし、私としては、そのあたりの認識を、その人の「教養の信用度」の境目とも見ている。


 「俳句をやられている」という自信家のナイト氏だったので、「あえて」指摘したら、「想定外」(これほどバカとは思わなかったんです(笑))の答えが返って来て、「助っ人」に、「そうですよねー、ありがとう」だったので、「切り時」(笑)と思ったしだいです。


 だいたいこの人の発想、あまりにイージーすぎる。「今年はニューヨークへ行きたいなー」と書き込んだところ、「せっかくニューヨークに行くのだったら、ボストンにも行ってください。晴代さんにお似合いの街ですよ」って、ヲイ!(笑)、どうせそこへ出ていくなら、あっちもこっちもっていう、田舎モノ丸出しに発想(笑)、調べたら、ニューヨークーボストンは、電車で4時間、飛行機で1時間ほどで、そう離れてはいなんですが、ニューヨークには目的があって行くんです。物見遊山じゃないんです。この人にとっては、旅行=物見遊山なんです。


 「もう、こういう人の世界のルールに触れたくないなー」と思って、ただでさえ少ない「友だち」を切ったわけです。だいたい、それが私の「友だち」を切る理由です。考え方の違いなどは問題にはしません。


 だいたい、俳句をやってるからって理由で、一面識もない(とくに女性)相手を、いきなり、ファーストネームで呼ぶ、その「作法」にも不快を感じていましたがね。


 ……てなわけです(笑)。


 おまけ:これまで多くの「友だち」を切って(また自分も「切られて」)きましたが、だいたい、運気はあがってます(笑)。頭も気分もすっきりです。


 それに「切る」とはいえ、私のページは「すべての人に公開」なので、あまり影響ないんです。ただ、「その人の(アホな)世界観およびルールに汚染されたくない」、それだけですから。


 

 


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10月15日生まれの3人 [なんとなくエッセイ]

10月15日は、フーコー、ニーチェ、カルヴィーノの誕生日でした。たぶん、来年も同じでしょう(笑)。


 


ニーチェ(1844年(弘化1年、日本はまだ鎖国をしていました(笑))10月15日、プロシア生まれ)〜1900年(明治33年)8月25日、ワイマールで死去。享年、55歳。20世紀に届かず)


 


イタロ・カルヴィーノ(1923年(大正12年、日本では関東大震災)、10月15日、両親ともイタリア人の植物学者で、キューバで生まれる)〜1985年9月19日、シエナで死去、享年61歳)


 


ミシェル・フーコー(1926年(なんと!日本は昭和元年)、10月15日、フランスのポワチエで生まれる)〜1984年6月25日、パリで死去、享年57歳)


 


 


「死はひとりの人の終り。ひとりの人の死んだあとに残っているものはといえば、彼が他の人々に与えたもの、他の人々の思い出のなかにとどまっているものである。


 


  ノールバート・エリアス」


 


(『ミシェル・フーコー伝』(ディディエ・エリボン、田村俶(たむらはじめ)(新潮社)より)



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