兜太逝き [俳句]
『金子兜太全句集』(昭和五十年、立風書房刊)より
(昭和十八年、「名古屋なる牧ひでをの新居を訪う」『生長』(未刊句集)より)
外套や芭蕉に遠くまた近く
(昭和四十三年、『踠踠』より)
(Ⅲ 竜飛岬にて)
無神の旅あかつき岬をマッチで燃し
(昭和十八年、『生長』より)
(安東次男征く)
春鴉頭上にドストエフスキーはなし
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兜太逝き付箋の意味をはかりかね (山下)
けふの自由律俳句@20170614 [俳句]
「ランボーのサイン真似たよ太陽がいっぱい」
(自由律俳句、だと)
I copy autograph of Rimbaud Plein soreil
(free-style haiku, they say...)
けふの一句@20170401 [俳句]
【けふの一句】
旧山廬訪(と)へば大破や辛夷咲く
飯田蛇笏(『山廬集』明治参拾九年、十六句のうちの一)
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「山廬」は、山にむすんだ庵。蛇笏が住んでいた。辛夷の句は、これ一句だけ。
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(こぶしの花はの花びらは6枚、がく片3枚。花の大きさ、6〜10センチ、木の高さ、5〜18メートル。よく似たハクモレンは、花の大きさ、10〜15センチ、木の高さ、10〜15メートル。葉は卵倒形で葉の先が突き出ている)
クリスマスの句 [俳句]
影は天(あめ)の下てる姫か月のかほ いが上野松尾宗房@23しゃい
はせを忌や月雪二百五十年 飯田蛇笏
淀川や聖夜は知らず客死かな 山下
この季語は良句なきかなクリスマス 山下
(写真は、2009年12月25日のパリ、マドレーヌ寺院)
瀧井孝作 [俳句]
飛騨高山出身の作家、瀧井孝作(1894〜1984)の出発点は俳句である。が、たしか、中学生の時、たまたま、高山で句会があった、河東碧梧桐(1873〜1937)に、飛び入りのような形で出した句を認められ、以後、魚問屋の店員をしながら、十代で「日本俳句」に投稿することになる。
散文は、大阪で特許事務所の事務員だった十七歳頃、俳誌『層雲』に投稿して荻原井泉水(1884〜1976)に認められる。
のち、芥川賞選考委員の重鎮となる。創作歴を見れば、ピカソのように早熟、長命の作家である。
俳句は、昭和五十四年七月刊の、『瀧井孝作全集』(中央公論社)第11巻に、明治四十二年から昭和五十四年まで、70年間ぶん、1479句、収められている。その一句。大正六年(1917年(瀧井、23歳)、ソ連革命の起きた年)、11月の作、『折柴(せっさい。瀧井の俳号)句集』より。
性慾かなしく重能の火灰を土にあける
二十一世紀に重能の記憶あり十三夜 山下