俳句の仏訳に思う [俳句]
Gallimardから出ている『HAIKU』は、芭蕉から金子兜太あたりまでを、四季ごとに訳した、アンソロジーであるが、訳があまりよいとは言えない。訳者が、句を深く理解しているとは言えない。おそらくいちばん多く取り上げられている、芭蕉の句だけを見ていっているだけだが、疑問に思う訳が多い。たとえば、
私のすきな、
旅人と我名よばれん初しぐれ
であるが、本書では、
Première bruine____
j'aurai pour nom
《le voyageur》
と、訳されている。直訳すると、
最初の霧雨___
私は「旅人」という名を持つだろう
なんのこっちゃである(笑)。
「しぐれ」は、brève averse d'automne でなければならない。従って、拙訳を試みると、
Le voyageur
On appelle mon nom comme ça
Première brève averse de cet automne
ってな感じになる。さて、ドナルド。キーン先生の英訳を見てみよう。
"Traveller"____is that
The name I am to be called?
The first winter rain.
私見であるが、俳句は、というか、俳句だけでなく、あらゆる文芸は、ことばの順序は重要である。翻訳だと、意味を通りやすくするため、まま変えられることがある。しかし、詩などの場合は、できるだけ変えたくない。それで、拙訳や、キーン先生の訳が出てくる。芭蕉の原句における「詩情」とは、「旅人と、よばれん」に表出している。だから、キーン先生も、わざわざ、___is that と、一見よけないような語を用いている。拙仏訳の場合は、comme ça である。
また、「よばれん」の「ん(む)」という助動詞の解釈も、仏語版の訳者は、単純に未来形、あるいは、推定ととっているようであるが、キーン氏が、「I am to be called?」と、疑問、自問しているように、作者の心情であり、「呼ぶなら呼べ」みたいな、旅人の矜持=冷たい冬の雨のなかをいく、りりしい姿の表出なのである。
詩(俳句も短歌も)は、意味を書いてはだめなのである。Gallimardの仏訳は、ただの意味に還元されていて、それが、どーしよーもないのである。また、古語もちゃんと読みきっていないという点もある。しかし、まあ、こういうものでも、考える材料にはなって、勉強になる。
(ドナルド・キーン氏の英訳は、『日本文学史 近世篇一』中公文庫より引用)