【エッセイ】「年々バカが増えていることを愁えるこの記念日」 [歴史]
「年々バカが増えていることを愁えるこの記念日」
どこかのバカが某有名人の文章の、「無断シェア」ではなく、「無断引用」をしていた。なんでも、広島原爆は、アメリカの戦争犯罪だとか。この文章には、戦争犯罪なる言葉の意味をはき違え、かつ事実誤認もはなはだしいものが含まれている。
第一、戦争にはルールがあって、この場合、被爆国は、それを避ける術があった。それは、戦争の終結かつ、全面降伏である。これをする権限は、当時の昭和天皇にあったことは、吉田裕著『昭和天皇』に述べられている。日本が原爆をも含む、被害に遭うことは、予想できた。しかし、「あえて」それをしなかったのは、昭和天皇が、臣民は自分のために死んで当然という、「帝王教育」を受けていたからだ。ただ、それだけのことである。ゆえに、戦争犯罪にあたるのは、昭和天皇ということになる。
そういうことも想像できないバカが、ただ有名人と表面的につながって、自分がごたいそうな存在であると思い込んでいる、SNSの「お友だち」という「フィクション」を愁えるばかりである。
日本の元号のはじまり [歴史]
日本の元号のはじまりは、大化。それ以前は、天皇はいても元号はなかった。われわれはこれを、「大化の改新、ムシゴハン(645年)」と覚えた(爆)。
『昭和天皇(上)』──昭和天皇には戦争停止の決定権があった。(★★★★★) [歴史]
『昭和天皇(上) 』(ハーバート・ビックス 著、 吉田 裕 訳、2002年7月31日、講談社刊)
実質的な天皇制は、持統天皇が藤原京を作り、律令制を始めたことから始まった。しかし平安時代には、それは形骸化していく。そして鎌倉から江戸時代まで、幕府=武士の政権となる。これを、ふたたび「天皇制」として「利用」したのが、明治政権である。意外なことに、「天皇制」という言葉がはじめて公で言われたのは、1930年代の世界共産党の大会のコミンテルンの時だという。
そのような「基礎」のもとに本書を読み解けば、近代的視点からの「昭和天皇」なるものが見えてくる。戦後の、穏和の姿は、「そうか、軍部やアメリカに操られていただけなんだ」と信じる人々は多い。しかし、手に入るかぎりの資料を分析して結論を下した本書によれば、昭和天皇は、幼少時から、「独裁者としての教育」を受け、民は自分のための死んで当然と信じ込んでいた。そして、太平洋戦争全体の決定権を持ち、敗戦が目に見えている時にも、「止める」ということを「言わなかった」。そのため、日本とアジアの多くの命が無駄に消えた。
本書は、右翼、あるいは、心情右翼(表面はリベラルでありながら、天皇は「いい人だった」と信じる人々を含める)には、否定的な人々がかなりいる。それらの人々は、欧米のジャーナリズムさえ疑っている。まあ、そういう人々は、日本の「良心的なジャーナリズム」を妄想しておればよいでしょうが。
ちなみに、昭和天皇は、7歳から日記を書いていたと言われるが、それは、宮内庁編纂『実録昭和天皇』には、まったく出て来ない。上記の本は、「宮内庁が記した日録」にすぎない。
すべての責任は昭和天皇にある [歴史]
昭和天皇が、決断できる立場だったのに、「決行!」を続けたからにほかならないのだ。
ハシモトは、本末転倒の考え方。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180815-00025883-president-soci&p=3
チェスラワ・クオカ(14歳の少女)@アウシュヴィッツ [歴史]
(FB友のUさんが、なんの説明もなくシェアされてました。見たところ、アウシュヴィッツのような収容所であることはわかりますが……。唇のあたりに傷があります。)
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当然モノクロであった写真を、カラー化したのは、特殊な技術を持つブラジル人アーティスト、Dr.マリナ・アマラルのおかげである。
この写真は、「アウシュヴィッツ・メモリアル」(アウシュヴィッツ記念館)によって、以下の内容を表す記事とともに投稿されました。それを、「感情をかき立てる」と、フランスのニュースサイト「20minutes」が、記事として取り上げていたのです。それを、作家の平野啓一郎氏が、「アウシュヴィッツで殺害された女性の写真がカラーになって感情に訴えかけるものがある」(20minutes の記事の「見出し」直訳)と、ツィートしました。それを、記事部分だけ、Uさんが「孫シェア」(?)していたのです。きっとUさんも、この写真を見て、「感情に訴えかけられた」のでしょう。
「私はなんで、Uさんが、20minutesの記事を?」と疑問に思いつつ、私も感情をかき立てられたので、そのサイトに行って記事を読んでみたら、ここに書いた事情がわかりました。20minutesは、Podcastをたまに聴いている、フランスのニュース・サイトです。
この「ニュース」には、ここに書いたように、いくつかのキーポイントがありますが、平野啓一郎氏は、正論ではあっても、だいたい、テレビのコメンテーターみたいなことしか言わない(笑)ので、ツィッターでも大したことは言っていません。
Uさんは、はじめ、20minutesの記事付きの、以下の写真のみシェアしてました。私が「なにも説明してない」とコメントすると、その記事まんま削除し、代わりに、上記の平野氏のツィートのみ貼ってました。
これだと、あまり感情をかき立てられません。私が「コメントしたため」に、Uさんは、写真を削除しました。自分も削除しようかと思いましたが、それでは、アウシュヴィッツで犠牲になった人々より、自分のメンツの方が大事ということになってしまうので、そのまま残すこととし、もう少し詳しくと、サイトに行って事情を調べ、追加しました。それが*****で挟まれた部分です。この写真は、収容所登録のため、殲滅収容所サバイバーの、ウィレム・ブラスが撮ったそうです。
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20Minites(フランスのニュースサイト)へ行って見てきました。
この子は、少年のように髪を刈られていますが、14歳の女の子です。ポーランド人です。看守に滅多打ちにされたあとの写真だと、アウシュヴィッツの殲滅収容所の生き残った人の証言です。このあと、彼女は、心臓にフェノール(石炭酸)を注射されて殺されました。そんなことを微塵も感じさせない、なんというりりしい表情でしょう。人間の尊厳で輝いています。3月12日がその日でした。75年前のことです。生きていたら、今でも生きていることが可能な、89歳です。彼女の顔を記憶しておこうと思います。彼女の名前は、チェスラワ・クオカです。
ゲバラの死から50年 [歴史]
France Culuture より(Facebookに流れてきた記事)
"J’ai eu un frère qui allait par monts et par vaux tandis que je dormais. Je l’ai aimé à ma façon, j’ai pris sa voix, libre comme l’eau, j’ai cheminé parfois près de son ombre." Poème de Cortázar écrit à l'annonce de la mort de Che Guevara
「私は私が眠っている間に、山越え谷越え行った兄弟があった。
私は自分のやり方で彼を愛した、私は水のように自由な彼の声を聞いた、私はゆっくり歩いていったが、時々彼の影が近くにあった」チェ・ゲバラの死を知った時コルタサルが書いた詩
(50年前、チェ・ゲバラはボリビア軍の凶弾の前に倒れた)
(ネット翻訳がひどいので、訂正しておきました@ボランティア)