SSブログ

【詩】「記憶」 [詩]

「記憶」

 

記憶の中の豊橋駅は、

脳の右側でしか再現されずそれは

古代都市のような階段を持ち床はいつも

水で濡れている

階段の右側はガラスのウィンドウがあってそこに

人形が縦横に置かれて

上っていく者を見つめている

痰ツボをはじめて知った

さらに右へ行くと

ソフトクリームの店があって

父母はニューファミリーのはしりだったので子を連れて

食べにいった丸いスツールに上って食べたソフトクリームは

ステンレスのスタンドに気取って載せられ

すぐに溶けてしまうのだったこの都市に生まれたのは

偶然この父母に生まれたのも偶然ときどき

見知らぬ星の子になって

不思議にその男女を見つめるのだったそう

左側は常に暗い

宇宙と直接繫がっているかのようだった




nice!(2)  コメント(0) 

【詩】「不可能」 [詩]

「不可能」

 

ヴァレリーの十行詩 ababccdeed と脚韻を踏む『蛇の粗描』 Ébauche d'un serpent を日本語に訳すはいいが同様な韻を踏むことは不可能であるこの蛇は vipère マムシである

十行詩とは十行の節が一連を形成している詩で、ababccdeed と韻を踏むヴァレリーの『蛇の粗描』は三十二連から成っている

 

*美しき蛇、青の中にひっくり返って、

ぼくは口笛を吹く、繊細に、

神の栄光に贈る

わが悲しみの喝采

ぼくには十分だ音楽の中

苦い果実の巨大な希望が

泥の息子たちを動転させるだけで

__きみを巨人にするこの乾き、

存在が奇妙を興奮させるまで

全能の無よ!*

 

『蛇の粗描』は上記のように結ばれる

空間はつかみどころがなく

三次元でも四次元でもない

悲しみの処遇として不可能に身をゆだね

わが遠州の蛇を懐かしむ

 

 

****

 

*印は、Paul Valéry "Ébauche d'un serpent" 最終連拙訳。




nice!(3)  コメント(0) 

【詩】「詩法」 [詩]

「詩法」

 

ヴァレリーのいない遠州では蛇も

粗描されない詩法の数に戸惑うばかりだ

だがそれは当然だった記憶のために詩が

必要だった韻文は筆記と同等で

残る

鏡の中に見るは遠州の祖母の眼

オオサという食料品店の娘だった

そうな山奥の食料品店すなわち

いいとこの出その娘が籠を背負って

茶摘みユキノシタにも天使は棲んでなくて

けれどトルゥバドゥール探す者は

訪ねて来る牛も寝ている早朝

ロシアの村にどこか

似てますねアマガエルが耳打ちするのだった

 

 


nice!(3)  コメント(0) 

【詩】「はげ鷹」 [詩]

「はげ鷹」

 

吉田健一はたったひとつの地名でも

詩になると言った

私にとって遠州というのが詩である

それはその名のとおり遠く

州であるその谷の砂地には

いつでもはげ鷹の死骸があって

陽に照りつけられて匂う

それは私にとって父性であり

父性とは最初に子に知を与えるものである

ゆえに父は私に人生最初の歌を教えた

まさに朝日に向かって歌いながら

「朝はどこから来るかしら?

 光の国から来るかしら?

 それは明るい家庭から

 朝は来る来る朝は来る」

ひとり川底を歩くとき

やがては父になるその少年と

その少年を送る私が重なる時

時間は金色に輝き

はげ鷹の死を祝福する




nice!(3)  コメント(0) 

【詩】「アテネ」 [詩]

「アテネ」

 

おとうさま、あなたが病に対してパロールを拒んだ時から、死すべき者たちは苦しまねばならなくなりました。

わたくしは、そのものたちのエスを癒すため、ニューヨークという大都会で、春をひさぐ仕事を始めました。

 

アテネ、ゼウスの娘。

ゼウスの毒の

解毒剤

エス、人間の核

これを失えば、

死。

フロイトを読まないものには、

知はないも同然、

トライベッカの

殺人。

 

エース。花びらのように

舞って、見せる

裏側。

ラカンの正式な

弟子でもないものが

著作の紹介は

絶望的な

企て。

 

鏡像、男根、アリストテレス。

無意識、他者、ハイデッガー。

 

にーんげんなんて

いちじの逃避

 

というわけでおとうさま、わたくしが

オリンポスに帰るのは

3000年後でございます。

それは、ゼミナールの終わり

分析、対決、研究。

 

オリンポスの神々の仮面には

以下のことが刻まれている。

 

「無意識は一つのランガージュのように構成されている」

「無意識とは他者のディスクールである」

 

Le stade du miroir comme formateur de la fonction du Je

 

 telle qu'elle nous est révélée dans l'expérience psychanalytique*

 

絹の靴下は、私をだめにする〜♪

 

 

 

* Jacques Lacan "Écrits "(Points)小題P89より)

 

 


nice!(0)  コメント(0) 

【詩】「惑星の名前できみを呼ぼう」 [詩]


「惑星の名前できみを呼ぼう」


 


今では


雨が降っても


簑を着るひとはいない。


湿った藁の感触を


思い出すひとはいない。


宇宙最速の


光さえも出られない



かすかに


きみの寝息が聞こえる


きみの出自


きみの記憶


きみの知識


きみの教養


のなかに、


湿った藁はあって


ロシアより愛をこめて


きみは私あてに


手紙ではなく


ひとを介して伝言する


その男に、きみはこういうはずだ


伝えてくれ彼女に


「ロシアより愛をこめて」と。


その男は苦笑いもせず


小さくうなずく


帰ったら


そう妻に伝えるよ


湿った藁を共有する私たち


愛なんて湿った……


湿った?


私は人混みを歩きながら


きみの寝息を思い出している


光さえも出られない?


けれどぼくたちの


愛は出られる


激しく泣く代わりに


 


惑星の名前できみを呼ぼう







s190816.jpg





nice!(2)  コメント(0) 

【詩】「カラスが蝉を喰っている」 [詩]

「カラスが蝉を喰っている」

 

マンションの庭の林立する木立に、蝉が鳴き始めて久しい。じーじーじーと途切れなく続いているのだが、それが「ジジッ」と途切れるときがある。一度見たことがあるが、カラスが蝉を、パクッとやっているのである。蝉は喰われる寸前でも、「ジジッ」と「声」を出す。油蝉の唐揚げ、などというイメージを思い浮かべる。いまは、ニイニイ、アブラ、クマ蝉、秋に入ると、ヒグラシになる。どんな味なのだろうか? 自然は残酷だな──。

ときに、松尾桃青こと、はせを、こと、若き日の芭蕉の主人にして「恋人」の俳号には、蝉がついていたような……

そんなことも思い出した

夏のある日だ

アシモフ曰く、

永遠は終わる

宇宙は裏返り、満たされる

エントロピーの

油。



カラス190808.jpg



nice!(2)  コメント(0) 

【詩】「サイコキラー、Qu'est-ce que c'est? 」 [詩]

「サイコキラー、Qu'est-ce que c'est? 」

 

期待していたものに

あざむかれて

世界は裏返り

宇宙を見失うとき

ひとは、詩を書こうと

思いつく。

サイコキラー、Qu'est ce que c'est?

ことばが人と共通と知ったとき

裏切ってみたい感情が発明される

サイコキラー、Qu'est-ce que c'est?

心象的比喩の彼方に

実存はあり

不意の幻滅と驚愕のお遊び

サイコキラー、Qu'est-ce que c'est?

一撃、含蓄、ゆらぎ

サイコキラー、Qu'est-ce que c'est?

内容も実質も持たない

天使の

心象的表現形式。

 



おれんじ目.jpg





nice!(2)  コメント(0) 

【詩】「地獄でのひと季節」 [詩]

「地獄でのひと季節」

 

Jadis, si je me souviens bien, ma vie était un festin où s'ouvraient tous les cœurs, où tous les vins coulaient.

 

 かつて、もしぼくの記憶が確かなら、ぼくの生活は心という心が開かれ、葡萄酒という葡萄酒が流れ出る饗宴だった。

 

さて。上記の行を、小林秀雄はこう訳す。

 

「かつては、もし俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴(うたげ)であった、誰の心も開き、酒という酒はことごとく流れ出た宴であった。」

 

そして、中原中也も堀口大学も金子光晴も、おおやけの形では、この部分を訳していない、というか、堀口がごく少量の部分を訳出している以外は、小林秀雄以外の、歴史に残る詩人、翻訳者の、流通している「Une saison en enfer」の訳を見いだすのは難しい。

なぜかというに、この「詩篇」は、あまり詩らしくないからだ。果たして、これは「詩」だったのか? 確かに、なかには、Mauvais Sang とか題名のついた「文章の断片」が含まれてはいるが。

私は、この時のランボーを思わせる年頃の少年を思わせる声が、「Une saison en enfer」を朗読しているのを、audible.comで購入してたまに聴くが、まるで、ランボーなのである。ほかのフランスの詩人たち、エリュアールとかアポリネールが自作を朗読しているCDも聴くが、みんな詩に酔っているような朗読のしかたであるのに対して、この、ホンモノのランボーでもない青年の声は、プロの朗読者であることも考えられるが、まるで、ぶっきらぼうに読んでいる。そして、その読み方に、内容の方もぴったりなのである。すなわち、

詩的な言葉はなにもなし。

小林秀雄は、いち早くそれに目をつけた。

ロマンチックなものは皆無、哲学的な暗喩も皆無、

ひたすら、なにかおのれの、かつての生活を顧みているだけの

散文の断片。

 

そうだ。

 

かぎりかく、だるさの深みへ沈んでいく──。

 

ランボーくんよ、あたかも、もうひとりのランボーを呼び出そうとしているかのようではないか。つまり、

 

シルベスター。

 

スタローンの、「ランボー」をさ。

 

そうさ。そのランボーも

 

Jadis(かつて)

 

戦場で(en enfer)、

 

ひとつの季節を過ごしたものだ。

 

(顔は直してしまったけどナ(爆))

 

(外野:これが詩か!)


sp190713_2.jpg




nice!(2)  コメント(0) 

【詩】「Fahrenheit 451、あるいは、突然トリュフォーのごとく」 [詩]

Fahrenheit 451、あるいは、突然トリュフォーのごとく」

 

まるで驟雨のように

駆け去っていく

雨の予報

天は一滴の雨も恵むつもりはないようだ

Fahrenheit 451 つまり摂氏約233度まで

待たなければ

紙は燃えない

渇いているのは

何への?

ひと?

本?

記憶せよ!

ホメロスのように

稗田の阿礼のように

突然の空白が

なつかしい映画監督を

思い起こさせる時

スペインではユーカリの

乾いた木が燃える

ハッピー・バースデー

トゥー

ミー

 

 

yukari.jpg

 


nice!(2)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。