『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』──落ち目なのはタランティーノ(笑)(★★★★) [映画レビュー]
【詩】「リルケに捧ぐ」 [詩]
【昔のレビューをもう一度】『キングスマン:ゴールデン・サークル』──今年ベスト3(早いか(笑))!(★★★★★) [映画レビュー]
『キングスマン:ゴールデン・サークル』(マシュー・ヴォーン監督、2017年、原題『KINGSMAN: THE GOLDEN CIRCLE』)2018年1月9日 7時57分
なんたって発想が新しい。死んだはずだよおトミさん〜♪のハリー(コリン・ファース)に拾われ、キングスマンとして教育された、元ストリート・ボーイのエグジー(ターロン・エガートン)が、ほんもののスパイになっていく。ハリーの口癖、Manners make man(マナーが紳士を作る)をモットーに、英国紳士にして悪をやっつけるスパイになっていくのだが、このスパイ組織、「親方ユニオン・ジャック」ではない、つまりは、政府とどこかでつながっている組織ではないところがすばらしい。「キングスマン」は、名前こそ「キング」がついているが、英国製というほどのイミしかない。「女王陛下の007」とは大違いである。私設の組織である。だから、人民を無視する首相は失墜し、彼を補佐していたエイミー・ワトソンに告発される。という、「小さな」スジまである。
007と大きく違うのは、主役は、若造で、しかもスエーデンの王女と恋に落ちたため、逆タマの、王子にまでなってしまうのである。彼女へ求婚したエグジーは、スエーデンの王と王妃という、「恋人の両親」との食事も、ハリーが教え込んだマナーと、同僚が「秘密の通信」(メガネがコンピュータになっている)で与える知識によって、教養も礼儀作法も王家にふさわしいムコとなるところは痛快である。
おっと、メインストーリーは、ジュリアン・ムーア扮する、悪の麻薬組織を壊滅させるまでの戦いであるが、この悪の帝王は、今まで男性が演じてきたが、予想されたようなお飾り的存在ではなくて、しっかり堂々と「強敵」なのである。
テーラーを隠れ簑としている「キングスマン」は、同僚をやられ、マーク・スロング扮する、メカ担当のマーリンと、エグジーしかいなくなって、「最後の非常事態」用のウィスキー試飲部屋に入ってみると、そこには、スコッチはなく、バーボンがあり、瓶の銘柄は、「ステイツマン」とある。いざ、アメリカ、ケンタッキーのバーボン製造所へ!
ブーツを履いた「ステイツマン」側には、カーボーイなお兄さんたちが待っているが、ここでもスジはそれほど単純ではなく展開する。
そこには、眼を撃たれ死亡したハリーが生きていて、もとの「キングスマン」リーダーに返り咲く──。なにがおかしいと言って、小技の武器が、007よりエロいのである。そのひとつは、コンドーム型指サックで、エグジーが「フェスでコマした」敵側のオトコの恋人の女の「そこ」へ差し入れると、「粘膜を通した情報」が、ハル・ベリーらのモニターに映し出される。「あら、テキーラ(チャニング・テイタム)もやってたのね、感心!」なんていうセリフまである。
小柄な体に筋肉をつけたエグジーだが、やはりどこか少年っぽく、そこが魅力で、抜群の運動神経も武器ではあるが、襲ってくるメカを「ハッカーして」逆に敵に向かわせるなど、現代的で小回りが利いている。もうオッサンがかっこつけて美女を侍らせる時代は終わった。エグジーはあくまで王女の恋人ひとすじで、昔のストリート仲間とつきあっている。政府などあてにならない時代のヒーローにぴったり。
【詩】「仮死の秋」 [詩]
「仮死の秋」
「……何より顕著なのは、『知の考古学』から厳しく身を引き離そうとしている仕草である」(蓮實重彥著『批評あるいは仮死の祭典』せりか書房、1974年刊より)
20年前は、蓮實重彥と橋本治を愛読し、「ふたりのハ」と呼んでいた。あれから20年以上経ち、もはや彼らの著書を開くことはなくなったが、ふと、扉のついた本棚から、数冊の蓮實重彥の本を取り出してみた。わたくしもまた、「彼らから厳しく身を引き離そうと」していた。橋本治の本も、『窯変源氏』『双調平家』を中心に、多作で知られる氏の本の全著作の、半分くらいは持っていただろうか。とくに、初期のエッセイ本は、氏の独創的な思想が如実に出ていてずいぶん感化されたものだ。しかして、
橋本治氏は死去され、蓮實重彥氏も、論壇の中心(であったことはないかもしれないが)にはいない。
そして、激しい雨が降り続き、本棚の中の、安岡章太郎『慈雨』も取り出してみた。
ついでに、すばらしい装丁(菊地信義装幀、赤瀬川源平装画、河出書房新社、昭和52年刊)、吉増剛造詩集『黄金詩篇』、『わが悪魔祓い』(菊地信義装幀、加納光於装画、同社、昭和53年刊)も取り出した。パラッと見ただけであるが、後者の方がよいような気がした。前者の最初の詩が凡庸だったので、読み続ける意欲をなくした。概して中身より装幀が勝っている本である。派手な装幀家が手がけると、往々にしてそんな感じになるのか。まあ、あまり装幀には凝らない方がいいだろう。
蓮實重彥の本の装幀は地味である。しかし、ひらけばそこに、題名どおりの、「仮死の祭典」が展開されている。これからも、
蓮實重彥は読んでいくだろう。
仮死という言葉が似合う
この時代の
秋である。
【詩】「記憶」 [詩]
「記憶」
記憶の中の豊橋駅は、
脳の右側でしか再現されずそれは
古代都市のような階段を持ち床はいつも
水で濡れている
階段の右側はガラスのウィンドウがあってそこに
人形が縦横に置かれて
上っていく者を見つめている
痰ツボをはじめて知った
さらに右へ行くと
ソフトクリームの店があって
父母はニューファミリーのはしりだったので子を連れて
食べにいった丸いスツールに上って食べたソフトクリームは
ステンレスのスタンドに気取って載せられ
すぐに溶けてしまうのだったこの都市に生まれたのは
偶然この父母に生まれたのも偶然ときどき
見知らぬ星の子になって
不思議にその男女を見つめるのだったそう
左側は常に暗い
宇宙と直接繫がっているかのようだった
『イソップの思うツボ 』──和製タランティーノ、上田慎一郎(★★★★★)
『イソップの思うツボ』( 上田慎一郎 中泉裕矢 浅沼直也監督、2019)
年)上田慎一郎 中泉裕矢 浅沼直也
私はかねがね、日本映画が世界レベルで勝負をかけるには、ハリウッドのまねは不可能、異国シュミを売るのは古すぎ、素人まるだしシュールな映画はお手軽すぎ、で、結局、日本的な現実の細部をどこまでリアルに描くかに、ひとつの道があるのではないかと思っている。しかも、低予算がまるわかりなのもおそれずに。低予算ということでいえば、ちょっと前に観たヨーロッパ映画は、俳優がひとりで舞台のように演じる、ワンカットの映画だったが、ああいうのは、誰でも思いつく。
しかし上田慎一郎監督は、『カメラを止めるな』のような答えを出してきたのだが、第二弾である本作によって、氏のスタイルがより明確になった。それは、
1,有名俳優を使わないことによって、俳優の肉体も含めた「ステレオタイプ」演技を排除し、展開を見えなくさせる。
2,「実は映画だった」で、メタを意識させ、かつさらに、「でも現実だった」でそれを裏返す手法で劇的なものを取り入れる。
3,俳優陣は顔が知られてないだけで、演技力は十分にある、とくに主役の亀田美羽の、ある目的のために「演技している」キャラクターと、地が百八十度違うが、そのどちらも説得力をもって演じているその演技力は大したものである。
4,映画がかなり進行してからタイトルが出るのも、毎度意表を突くが、その展開で使われているノリのいい音楽は、すぐれた洋画を思わせるほどセンスがいい。
5,上田監督のテーマに、「映画」があり、毎度、筆書きされたタイトル(今回は「亀田家の復讐」)の脚本が結構「演技」をし、クサくかつ生々しく、これだけでも十分に笑いをとっている。
6,今回、監督は、三人であるが、上田監督以下の監督は、『カメラを止めるな』の助監督、スチール監督で、これは、違う人間がやることによって、異質な部分ができて、一本調子の「物語」を避けることができる
……てなてな感じで、今回も、「あるあるこんな人」が多々出てくるが、その表現が細かいので、批評になり得ている。
こういう作品を、素人とかチャチとか信じ込んでしまう人は、まー、アタマが紋切り型になってしまっているんですね。
【詩】「不可能」 [詩]
「不可能」
ヴァレリーの十行詩 ababccdeed と脚韻を踏む『蛇の粗描』 Ébauche d'un serpent を日本語に訳すはいいが同様な韻を踏むことは不可能であるこの蛇は vipère マムシである
十行詩とは十行の節が一連を形成している詩で、ababccdeed と韻を踏むヴァレリーの『蛇の粗描』は三十二連から成っている
*美しき蛇、青の中にひっくり返って、
ぼくは口笛を吹く、繊細に、
神の栄光に贈る
わが悲しみの喝采…
ぼくには十分だ音楽の中
苦い果実の巨大な希望が
泥の息子たちを動転させるだけで…
__きみを巨人にするこの乾き、
存在が奇妙を興奮させるまで
全能の無よ!*
『蛇の粗描』は上記のように結ばれる
空間はつかみどころがなく
三次元でも四次元でもない
悲しみの処遇として不可能に身をゆだね
わが遠州の蛇を懐かしむ
****
*印は、Paul Valéry "Ébauche d'un serpent" 最終連拙訳。
【詩】「詩法」 [詩]
「詩法」
ヴァレリーのいない遠州では蛇も
粗描されない詩法の数に戸惑うばかりだ
だがそれは当然だった記憶のために詩が
必要だった韻文は筆記と同等で
残る
鏡の中に見るは遠州の祖母の眼
オオサという食料品店の娘だった
そうな山奥の食料品店すなわち
いいとこの出その娘が籠を背負って
茶摘みユキノシタにも天使は棲んでなくて
けれどトルゥバドゥール探す者は
訪ねて来る牛も寝ている早朝
ロシアの村にどこか
似てますねアマガエルが耳打ちするのだった
『ロケットマン 』──タロン・エガートンの軽さが作品を脱物語化(★★★★★) [映画レビュー]
『ロケットマン』(デクスター・フレッチャー、2019年、原題『ROCKETMAN』)
すでに若手俳優界も様変わりして、容姿がすぐれた人間などどこにでも落ちているので、まず演技力がなければオハナシにならない。かてて加えて、オリジナリティー、現代の軽さも身につけていなければならない。そういう意味で、『キングスメン』のタロン・エガートン、『ベイビー・ドライバー』のアンセル・エルゴート、『スパイダーマン』のトム・ホランドには注目していたが、とくに、『キングスメン』の、ストリートキッズからエージェントに拾われ、りっぱなエージェントに成長していく、タロン・エガートンにとくに注目していた。その彼が、まったくイメージの違うエルトン・ジョンを演じるとあれば、なにがなんでも駆けつけないわけにはいかない。そういえば、『キングスメン』で、エルトン・ジョンその人は、カメオ出演していたな。そういうつながりもあるのだろう。
『キングスメン』では、完全なる無名俳優の大抜擢であったが、彼の軽さが、「スパイ物」を新しいものにしていた。本作も、エルトン・ジョン自身には、風貌や持ち味からは似ても似つかないエガートンであるが、無理に似させようとはせず、彼の解釈したエルトン・ジョンを、彼自身と重ねながら、ほんとうに楽しんで演じていて、この俳優の底知れぬ可能性を感じた。
映画じたいも度肝を抜いて、苦い半生ものではあるものの、ドラマのなかに没入したものではなく、なんと、いちばん暗いシーンで突然歌い出す、ミュージカルであった(笑)! 厳格な父親さえが歌い出せば、映画は脱物語化され、たんなる大スターの伝記ではなく、そこに批評が入り込む。なんせ、内気な少年が、ど派手なロックスターになりました、で終わりではなく、その大スターが、アルコール依存症のグループセラピーに出て、そこで自らの生い立ちを語る設定になっており、そこには、「上から目線」のようなものは、あらかじめ排除されている。
エルトン・ジョン自身も制作者に名を連ねているのだから、「監修」の目はあったと思うのだが、それを、タロンに自由に演じさえ、歌わせているところにも、器量の広さを感じた。芸術がなんであるか考えさせる、知的ですがすがしい作品である。