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蓮實重彦著『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』──「とりあえずの」レビュー [Book]

『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出書房新社、1995年刊)


 


 本書は、フーコー、ドゥルーズ、デリダについて、何か知ろうとする読者にはまったく向いてない。これは、「とりあえずの」解説らしきものを書いている、松浦寿輝が言うように、まだ上記の現代思想の思想家たちの著書が翻訳中で、本格的には日本には入って来ていない70年代に、それでも、いまの「ピケティ」並みに、大騒ぎしている人々がおり、「原書も読んでないくせに」と苦々しく思った著者が、脅しをかけた書である。さらに松浦氏の「解説らしきもの」によれば、「デリダとはいちばんそりが悪いようだ」というのもあたっていると思う。なぜなら、デリダは、テッテイして、「認識」の人だからである。一方、本書の著者は、抽象的とも思える言辞をだらだらと書き連ねているにすぎない。ま、要するの、蓮實重彦(彦は、旧字らしいがそこまで手をかけない)の「フィクション」である。本書が、上記3人の「哲学者」を語るにふさわしくないのは、著者が「使っている言葉」を一向に疑わずに、「ソシュールからロマン・ヤコブソンへと至る音韻的な流れにあって、表記法の問題がたえず音声に従属しつづけていたことは人も知るところだ」などと書いていることでもわかる。


 デリダによれば、暗喩がさらに摩滅しているのである。そういった意識はいっさいされず、延々と、自己陶酔的脅し文句を書き続けているのである。「誰もが知っている3人」って、ほんまかよ(笑)?


 


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rukibo

実験です。コメント反映されるかどうか。

by rukibo (2019-05-29 20:14) 

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