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『マクベス』──映画史に残るかも知れない(★★★★★) [映画レビュー]

『マクベス』(ジャスティン・カーゼル監督、 2015年、原題『MACBETH』)


 


  本作がどの国の人々に向けて作られたかが問題である。なぜなら、イギリス人にとって、『マクベス』の物語など誰でも知っている。ネタバレもなにもない。しかも、シェークスピアの時代には、舞台装置はなく、暗いなかで、男たちだけで演じられた。つまり、言葉だけで、背景や状況を説明しなければならず、しかもその言葉は詩なのである。


 いやしくも、シェークスピアの作品そのままを映画化するなら、言葉は当然、原文でなければ、シェークスピア作品ではなくなってしまう。だから、クロサワの作品が、『マクベス』ではなく、『蜘蛛の巣城』(英語の題名も、『Throne of Blood(血の王座)』となっている。なるほど、「ストーリー」は、「マクベス」そのままである。とはいえ、本作は、ポランスキー、オーソン・ウェルズとあるなかで、いちばんクロサワに近いのである。山の多いスコットランドの広大な風景の中で無数の兵たちの合戦がロングで撮られる構図は、そのまま、武者たちが闘い合う、クロサワの『蜘蛛の巣城』である。ただ、『蜘蛛の巣城』は怪奇映画となっている。撮影期間23日間で、「B級」として撮られた、オーソン・ウェルズの『マクベス』も、見たとこ、怪奇というかホラーじたてである。ポランスキー作も、やはり怪奇味を帯びている。


 時間順に並べると、ウェルズ監督作(1948年)、クロサワ(57年)、ポランスキー(71年)となる。おそらくは、ウェルズの「怪奇」が範をなしていると思われる。


 さて、言葉が本体であるシェークスピア作品そのものの映像化は、いかにあるべきか。やはり、言葉と拮抗し合う映像があるべきである。イングランドにはほとんど山がない。平地がいきなり森になっている。一方スコットランドは山岳地帯である。「森が動く」。本作はそのあたりをうまく映像化していると思った。シェークスピアが見たら、さぞかし満足することだろう。しかも主役の二人は、「ヨーロッパ人が美しいと認める」演技派男女優である。


 さらに、本作の特徴に、子どもの導入がある。戯曲には、「王になる」と魔女に予言されるバンクォーの息子、フリーアンスも、幼い子どもであるということは書かれていない。魔女たちのなかにも、子どもの姿が混じっていた。しかも魔女の顔の表面に、ホチキスの歯の跡のような数本の筋が目立っていた。それがどうも、魔女のしるしのようだった。


 全体に透明感のある、「怪奇」からは脱した『マクベス』であった。なにか物々しい物語や、面白い展開を期待していた日本の映画ファンは、どこか肩すかしを食わされたように思うかもしれない。日本では低評価ながら、映画史には残るかも知れない。


 ことほどさように、「詩」を映画の字幕に変換するのは、難題である。そこで、ひさびさ、戸田のナッチャンがご登場となったのか。ファスベンダーもコティヤールも、原文そのままをしゃべっていたと思う。ただ、コティヤールの英語は、クィーンズイングリッシュには聞こえなかったが、マクベス夫人とは、どこの馬の骨とも知れないとも言えるので、それでもいいのではないかと思った。

 


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