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『ハミングバード・プロジェクト 0.001秒の男たち 』──Time is life(堀江貴文『時間革命』より)(★★★★★) [映画レビュー]

『ハミングバード・プロジェクト 0.001秒の男たち 』(キム・グエン監督、2018年、原題『THE HUMMINGBIRD PROJECT』)
 Facebookの創始者、マーク・ザッカーバーグを描いた『ソーシャルネット・ワーク』で、ザッカーバーグその人を演じて、GAFA時代の感性と知性を体現し、かつ、ザッカーバーグより「きれい」(笑)な、ジェシー・アイゼンバーグは注目せざるを得ない俳優である。彼は、小柄で、線も細いが、なにか21世紀的な根性を表現できる。その彼が、彼とは対照的な、筋骨隆々で大柄な美丈夫(だったんですけど(笑))、ターザン俳優の、アレキサンダー・スカルスガルド(「ツルッパゲ」は、自かどうか(笑)。その「光り方」が妙にリアルであったが(笑))とコンビを組み、同じロシア移民のユダヤ人、従兄弟同士として、NY証券取引所の金融界に挑戦した。かつては、ここでは、マイケル・ダグラスが、紙幣の雨のなか踊り狂っていた(爆)。実際、私は現地へ行ってみたが、NY証券取引所のある「ウォール街」は、思ったより狭い場所だった。近くには、9.11事件の貿易センタービルもあった。埠頭に近い、アメリカを象徴する場所である。その場所から、アイゼンバーグ扮するヴィンセントが、光回線を敷設しようとする、データセンターは、1600キロ先のド田舎(?)のカンザス州にある。それが実現すれば、株の売買が0.001秒短縮され、年間500億円の利益が見込まれる──。
 当然、「出資者」がおり、その回線敷設に必要な土地が買収される。「道中」も大変ながら、ヴィセント自身、胃がんであることが発覚する。すぐにでも治療を開始しなければ、生存率も低くなる──。そんな苦難のなか、「敵」役の、プログラマーのスカルスガルドが元いた会社の上司、サルマ・ハエクが、さらなる試練をけしかける。土地買収も、農家の地主のがんこさでうまくいかない──。
 結局のところ、計画は挫折し、ヴィンセントは、生とは何かに目覚める。そういう物語を、地味な、荒地、コンピュータや周辺機器、自然が降らせる雨や雪、光、などで見せる。語りにくいものを、アイゼンバーグの肉体と演技が体現する。音楽もさりげなく洗練されている。



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『アド・アストラ 』──最高に美しいブラピとまったく新しい映画(★★★★★) [映画レビュー]

『アド・アストラ』(ジェームズ・グレイ監督、2019年、原題『AD ASTRA』)
 本作は、キューブリックの『2001年宇宙の旅』を見てない人、ホメロスの『オデュッセイア』を読んでない人、また、テオ・アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』を見ていない人、スピルバーグの『未知との遭遇』を見ていない人、には、なんのことかわからない。そして、宇宙モノ、ということで、勝手な期待をして、それが裏切られたと怒りまくる……そういう観客は、進化前の類人猿にさも似たり(笑)。そういう観客は「見るなよ!」という意味で、わざわざ、題名を、ラテン語にしてある。訳してみれば、「宇宙へ」ですかね。そして、そういう映画を、ブラッド・ピットは作りたかった。制作側は「ブラピを無駄遣い」っていう、無知丸出しのレビューがあったが、ブラピが制作なんですっ!
 ここには、最高に美しいブラピが、最高に繊細な演技をし、かつ、見たこともない世界、視点が映像化されている。これぞ、映画を見る意味なのである。
 冒頭宇宙服姿のブラピが宇宙船に乗り込もうとするが、「サージ」が起こり、悲惨な事故を見せつける。コロンビア号の事故ではないが、発射台などがぶっ壊れ、ブラピを含む宇宙飛行士たちが投げ出されたりして死亡するが、ブラピは機転によって辛くも生き延びる。
 「サージ」とは? 私が解釈するに、異常な重力波ではないかと思われる。それが、太陽系の彼方から来ていることがわかる。そこには、人類の存在する気配がある。というのも、「サージ」は、人工的に起こされた核爆発などを起因とするからである。そしてその位置は……海王星の付近……ちょうどロイ(ブラピ)の父が行方を絶った位置である。ブラピの父は、優秀な宇宙学者であったが、地球外生命探索に乗り出し、それに熱中し、太陽系の彼方、海王星あたりに消えて、十数年経ち、死んだものと思われていた──。
 しかし、「サージ」が起こったことで生きているかもしれないということになり、息子のブラピが探索へと、政府から任命される。
 タルコフスキーの『惑星ソラリス』をも彷彿とさせる、内面の語りと、見たこともないような月と太陽系の惑星の風景、それらのほとんどは、住めるようになっている。ヘルメットをかぶったブラピの顔が何度も映し出され、観客はヘルメット越しに彼の顔を見ることになるのだが、その表情は、美しく繊細で、涙をひとすじ流すが、無重力下では、粒となって飛ぶところを、スッとほほを伝うような「非科学」をわざと選択している。
 結局、物語は、ブラピの心の成長……のようなものに収束していく。非科学的と、非難しているレビュアーもいたが、こういう一般人に指摘されるまでもないだろう。それは百も承知のうえであり、だいたい、科学は、一種のイデオロギーにすぎないのである。そのあたりを、五十を過ぎていまだに、整形することなく、自然な美しさを保っているブラッド・ピットが、入魂の演技をする、美しいだけではなく、志も高い。




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【昔のレビューをもう一度】『妻への家路 』──やっぱり、チャン・イーモウなのか(★★★★★) [映画レビュー]

『妻への旅路』(チャン・イーモウ監督、2014年、原題『歸来/COMING HOME』)
2015年3月8日 20時10分  
 ひさびさのチャン・イーモウ+コン・リー。「世界中が涙」とパンフにあったが、な、泣けない……。確かに映像もすばらしく、コン・リーの演技もすばらしく……であるが、なぜだろう? すでにテーマが時代遅れのせいもある。確かに、文化大革命の残した傷跡というのは、あるだろう。しかし、今の中国はいったいどうなっているのか? 歴史を描くとしても、今の中国人の視点から見た歴史でなければならない。文革の放下より帰還という映画は、ほかにもあったように思う。それらと比べて、とりわけ抜きんでているわけではないと思った。ただ、さすがに、物語を紋切り型に収めず、妻の記憶は戻らず、「知人」として彼女が「夫」を迎えに、毎月「5日」に駅へ行くのに寄り添い続ける夫は、もしかして、自分自身の帰還さえ待っているのかもしれないということを考えさせた。そういう意味では、やはり、チャン・イーモウなのか。音楽は、かなり洗練されている。



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『SHADOW/影武者 』──あの赤、さすが中国のスピルバーグ(★★★★★) [映画レビュー]

『SHADOW/影武者 』(チャン・イーモウ監督、2018年、原題『影/SHADOW』
三国時代、日本で言えば、弥生時代で卑弥呼が活躍(笑)、西洋は、ローマ帝国の時代である。そんな時代の、国盗り物語の一エピソード、腕も頭もたつ、重臣の一人が、国を取り返そうとする話をベースに、おのれの影武者を作り、彼を、相手国の王と戦わせる。しかし……影武者、影であったものに、「本体」を取られるまでを描く。
 妻夫木聡に風貌ちょい似たりの、影武者と、とんでも爺に見える「本体」の重臣・都督を演じるダン・チャオがすばらしい。似ているから影武者なんだろうが、実際、全然似てない(笑)。
 多くのレビュアーが、水墨画とかモノクロとか書いているが、私にはそうは見えなかった。黒は、ネイビーであり、ブルー、水色などが、無限のグラデーションを作って、王宮や市街、隠れ家、湖、雨などを表出している。敵方の、刀というマスキュランな武器に対して、影武者と常に「夫婦を演じさせられている」、都督の妻が、自在な、傘という、フェミナンな武器を思いつく。その傘の動きが、本作の見せ場である。ブーメンランのような武器を仕込んだ傘が、雨の戦場で舞う──。そして、おそらく、この「赤」を目立たせるための、暗い色使いであったことがわかる。すなわち、戦場で流される血である。それだけが赤く美しく、流れていく。さすが中国のスピルバーグ。





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【昔のレビューをもう一度】『アンジェリカの微笑み 』──映画とは何かを教えオリヴェイラ逝く(★★★★★) [映画レビュー]

『アンジェリカの微笑み』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督、2010年、原題『O ESTRANHO CASO DE ANGELICA/THE STRANGE CASE OF ANGELICA』) 2016年1月30日 5時57分  
「オリヴェイラは世界最大の映画作家である」と、蓮實重彥は、『映画狂人、神出鬼没』(河出書房新社、2000年)のなかで書いている。「映画とは何かと問う以前に、この人が撮るものなら無条件に映画だと確信するしかない『映画作家』がマノエル・デ・オリヴェイラなのである」と。
 本作は、2010年、オリヴェイラ、101歳の時の作ということで、とかく、「老齢」という眼鏡で作品を見がちだが、この映画作家は、キャリアの中心となる作品を70歳過ぎてから集中的に撮り、80歳を過ぎても、1年に1作というペースを守り抜いたという事実を知るなら、老齢だからというのはエージバイヤス以外のなにものでもないだろう。
 冒頭からして非凡である。雨の道に車が停まるが、すぐに、死んだ若い女を撮る写真家が登場するわけではない。本職である写真家の写真館の扉を叩くも、人はなかなか出てこない。通りで待っていると、二階に明かりが点き、誰かが姿を現す。しかしその人物は、両開きの窓を開けたものの、すぐに雨だと知り、傘を持ってきて差す。そして、ベランダから、「こんな夜中になんの用ですか?」と言う。年配の女性であった。車を運転してきた者は、「××館の奥さまが娘さんの写真を撮ってほしいと言ってるんです」という。ベランダの女性は、「主人はポルトへ行っていて留守なんです」と答える。「それでは帰られるまで待ちます」「帰るのは明後日なのよ」
 土砂降りの中で、途方に暮れる来訪者。「誰かほかに写真家を知りませんか?」心当たりがないと女性は言う。そこへ、男が通りかかり、プロでないが、趣味で写真を撮っている男を知っていると告げる。二人は車に乗り込み、ベランダの女性は室内へ引っ込み、窓の明かりが消される──。冒頭だけで、これだけのドラマがある。こんな雨の真夜中に、通りがかり、「趣味で写真を撮っている男」=この映画の主人公、死んだ女、しかも既婚者、に恋をしてしまう若い男へと、導いていく人物は誰だったのか──?
 のっけから死臭漂う物語である。死んだ高貴な家の美女(死因も、周辺の事情も語られない)の、死体の写真を撮るなどという行為も、考えてみれば忌まわしい。人は死ねば筋肉はすべて弛緩し、いくら美女とはいえ、美しいままではいられないはずである。しかし、アンジェリカは、いくら半身が起こされたような状態で横たわっているとはいえ、まるで生きているかのように(すでに)微笑んでいる。青年の、イザクという名前を聞いただけで、その館の一堂は、「ユダヤ人!」と、ちょっと引き気味になる。青年が宗教にはこだわっていないと言うと一堂は安心する。
 宗教的な映画である。しかし、それは純粋カトリックでもない。いわば、人が死へ向かう時、精神が必要とする宗教。たまたまポルトガルなのでカトリックだが、もしかしたらイスラム教、仏教でも構わない。
 確かに青年は、アンジェリカの写真を撮り、まるで生きているかのような彼女に恋をするが、同時に、葡萄畑を耕す労働者の写真も撮っていて、それは集団というより、労働者ひとりひとりの鍬を下ろす瞬間の顔写真だったりする。その労働者の写真の間に、アンジェリカの写真を入れて、天上下に吊ったひもに洗濯バサミのようなピンで留めて並べて乾かしている。その写真は、常に、観客からは裏側になっていて白い紙が見えるだけである。その向こうは、丘と川が見下ろせる窓である。
 青年はアンジェリカの夢を見、いっしょに抱き合って空を飛び、(おそらく)アンジェリカの葬られた墓地の鉄扉をつかんで、「アンジェリカ!」と何度も叫ぶ。青年の下宿先の、食堂に置いてあった鳥かごのなかの、下宿の女主人がかわいがっていた小鳥が死ぬ。そして、後追うように、青年も息絶える。ショパンのピアノ曲が、この意味のない物語を際立たせる。われわれは、映画とは何かを知るだけだ(合掌)。

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【昔のレビューをもう一度】『グランド・ブダペスト・ホテル』 ──ポスト・ポスト・モダン的(★★★★★) [映画レビュー]

『グランド・ブダペスト・ホテル』(ウェス・アンダーソン監督、2013年、原題『THE GRAND BUDAPEST HOTEL』)  2014年6月9日 16時15分 
 
 ストーリーはあるにはあるが、ウェス・アンダーソンが本作で描きたかったのは、「一覧できるヨーロッパ的なるもの」と、「そのディテール」であろう。ゴダールもことさらホテルを舞台に選び、「ホテルではあらゆる人が出会い、なんでも起こりうるから」と言っていたと思うが、そこを、この作品は外していない。
 ホテルに、とくに、高級ホテルに行けば、「従業員の最下層」と思われるベルボーイがいて、すぐに荷物を持ってくれる。一応、本作品の「主役」、コンシェルジュのグスタフも、ベルボーイあがりであることが、映画の後半で明かされる。といってもたいていは予想がつく。本作では、いつもは脇でしかないコンシェルジュを主役に、その職業の人々に大活躍させる。また、囚人など、高級ホテルからは縁遠い人たちにも、一流俳優がキャスティングされ、豪華さと批評を同時に達成している。
 ウェス特有の、「いわゆるひとつのディテール主義」は、本作でいっそう拍車も磨きもかけられ、思想にまで高められている。T.S.エリオット、ヘンリー・ジェイムズら、ヨーロッパに魅せられた一流アメリカ人の、もしかしたら、正統なる後継者は、彼なのかもしれない。
 「現在」「1960年代」「1930年代」の「中央」ヨーロッパが、入れ子構造に舞台になっていて、物語の中心は、1930年代にあるが、中央ヨーロッパの崩壊、再編成、クリミア、ウクライナ問題、ドイツ語、フランス語、カトリックの神父などの噛み合わせ具合は、現在の状況をも重ね合わすことができる。
 大はホテルから、小はお菓子まで、あらゆる「道具」をオリジナルに製作している神経の届き方には、ただただ敬服するしかないが、なかでも一番感心したのは、大富豪の老夫人の家にあった絵画で、彼女が、「愛する友=コンシェルジュ」のグスタフに遺してくれた作品であるが、画家も架空なら、「林檎と少年」という題名だったか、その絵も作り物だが、その「いかにもの」少年の姿である。エンド・クレジットには、その絵のモデルとなった人物の名前まであった。BGMも、前作『ムーンライト・キングダム』同様、クラシックが贅沢に、かつ教養的に配されている。
 「デリダ」だの「だれだ」だの、おフランス思想に未練たらたらの日本の「現代思想」愛好者も、いろいろ小難しい理屈をこねる前に、こんだけの映画を作ってみたらどーだね?



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【昔のレビューをもう一度】『犬ヶ島 』──ゴダールはすでに終わっている。 (★★★★★) [映画レビュー]

『犬ヶ島』(ウェス・アンダーソン監督、2018年、原題『ISLE OF DOGS』 2018年6月4日 10時52分
 
  ウェス・アンダーソンは、世界でほぼただひとり、映画で「現代思想」を表現している作家だ。それは、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』(2001年)の時にすでにその萌芽を宿していたが、そのときは、ちょっと変わった映画監督にしかすぎなかった。テネンバウム家の三人の子どもはすべて天才児で、若くして成功している。という設定じたいが、今回の『犬ヶ島』で、現市長を選挙で破り、メガ崎市の市長となって、「ドッグ・ファースト」の街を作っていく12歳の少年、小林アタリを予言させる。『テネンバウムズ』では、長女は12歳で劇作家デビューしていて、これを、グィネス・パルトローが演じていて、アンダーソンのポスト・ポスト・モダン思想をすでにして体現していた。
 本作は、『ムーンライズ・キングダム』(2012年)の延長線上にあるような作品で、子どもの独立、島(しきりに島の見取り図が示される)、冒険、劇的な音楽、物語からの逃走が、基本として揃っている。従来の世界を支配しているおとなたちは、すでにどうしようもない迷路に陥っていて、ここから新しい秩序を作るのは子どもなのだった。そのヒーローに、小林アタリ、そして、彼を助けるのが、ふだんは人間どもにいいように扱われている犬たちである。そして犬の声を演じるのは、「かわいい」はほど遠い、オッサン俳優たちである。彼ら、ビル・マーレイ、ジェフ・ゴールドブラム、エドワード・ノートン、リーブ・シュライバーといった、ウェス・アンダーソン組常連の大物俳優たちが、早口で活きのいい口語英語をまき散らす。合間に、日本語が入る。音はカタカナによって視覚化され、デザインにもなって、映像美を形づくる。おバカ三兄弟のインド旅行を描いた『ダージリン急行』(2007年)の「主役」が、マーク・ジェイコブスデザインの旅行かばんだったところにも、この監督のデザイン性は表れていた(この作は、『戦場のピアニスト』で人々の涙をしぼったエイドリアン・ブロディが、ひとを喰ったお調子者で出ていることも見所である)。
 『グランド・ブダペスト・ホテル』(2013年)で、すでに、「ポスト・ポスト・モダン性」は頂点に達したかに見えたが、アンダーソンは、本作で、さらにその思想を深めたように思えた。それは、英語、日本語が入り混じり、古いものと新しいもの、歴史と現在が混じり合っているネット状況が、こうした作品を可能にしたように思える。その世界は、かぎりない細部へのこだわりが、未来への道しるべとも思える。
 今年のカンヌ映画祭で、かのゴダールが、いかなる姑息な方法を使おうが、すでに「そのスタイル」は古び、なんらかの思想を伝えることは不可能だった。いま、ウェス・アンダーソンのみが、今の思想を表現しうる。



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『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』──落ち目なのはタランティーノ(笑)(★★★★) [映画レビュー]

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(クエンティン・タランティーノ監督、 2019年、原題『ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD』)


 歴史=事実というものは変えてはいけないのである。そういうことが許されれば、ホロコーストはなかったという筋書きも、また、ヒットラーは善人だったという設定も許される。現に「シャロン・テイト惨殺事件」は、ハリウッドで起こってしまっている。これをあとから、実は、この映画の主演の、落ち目のテレビ俳優と、そのスタントマンのおかげで「難を逃れた」ということに「してしまって」、いったい何が救われるのだろう。シャロンの魂が救われるとでも? 「奇跡のラスト13分」というのはまったくの売り文句であろう。こういう売り文句でもなければ売れなくなった、落ち目の映画監督、それがタランティーノである。……ってなことを暴露してしまった映画と言える。映画愛かなんか知らないが、1969年のハリウッドのセットを舐めるように撮る、ひとつひとつのエピソードが長すぎる。気がついてみたら、三時間近くも座らされていた(笑)。

 しかしまあ、悪いところばかりでもない。ディカプリオとブラピという、或る意味「無冠の帝王」的二大スターを、落ち目スターと、そのツレの、スタントマン兼付き人という、実際の二人からはほど遠いキャラクターを創り出したことは近年の快挙と言える。とくに、ブラッド・ピットは、五十過ぎてなお若々しく美しく、演技も軽やかで心地よい。シャロン・テイト(マーゴット・ロビー)が、この映画の影の主役という意見を、「Yahoo!映画」の評論家氏は書かれていたが、どーでしょーか? それほど魅力があったとも思えない。むしろ、この映画は、ブラピのかっこよさを見せつけるためにあったと言ってもいいくらいである。なんせ、誰よりもスターになって当然(つまり現実はそう)なのに、しがないスタントマンをやって、ディカプリオは一応豪邸に住んでいるが、ブラピはピットブルみたいな犬と、トレーラーハウスに住んでいる。若い女ヒッピーの誘惑にも屈しない。ディカプリオ邸のテレビのアンテナも「見ておいてくれ」とディカプリオから頼まれると、ディカプリオをスタジオに送ったあとに、道具を持って邸の屋根に上る。こういうどうでもいいような作業がていねいに描かれて、それがブラピの魅力を増す。そこから、隣りに引っ越してきた、ポランスキーの妻、シャロンが音楽で踊っているところも見えるのだが、ブラピは特別反応しない。ブルース・リー風(?)のスターにイチャモンをつけられて、カンフーの技をかけられるも、リーを倒してしまう。シャロンを惨殺するためにポランスキー邸に押しかけるはずの、チャーリー・マンソン(オーム真理教の麻原みたいなやつと思えばいい)の命令を受けた信者たちが偶然ディカプリオ邸にやってくると、台所(?)だかにいたブラピが応酬して殴り殺してしまう。マンソン以上に得体の知れない無気味なやつなのだ(笑)。しかし、このキャラは新鮮であった。ブラピはこの後、「ブラピ史上最高の演技」と言われる、SFものにも出るし、意外や意外、ただの昔美形のオヤジではなかった。ことだけが、印象づけられる映画なのである。

 タランティーノは10作作ったら映画をやめるというウワサがあるが、本作が9作めである。これまで、私は8作は観ているが、10作目を撮る前にオワコンの雰囲気(合掌、アチャーッ!! それにしても、ブルース・リー風の役者はちんけすぎた。ファンから怒られてもしーらないっと(笑))。




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【昔のレビューをもう一度】『キングスマン:ゴールデン・サークル』──今年ベスト3(早いか(笑))!(★★★★★) [映画レビュー]

『キングスマン:ゴールデン・サークル』(マシュー・ヴォーン監督、2017年、原題『KINGSMAN: THE GOLDEN CIRCLE』)2018年1月9日 7時57分 


 


 なんたって発想が新しい。死んだはずだよおトミさん〜♪のハリー(コリン・ファース)に拾われ、キングスマンとして教育された、元ストリート・ボーイのエグジー(ターロン・エガートン)が、ほんもののスパイになっていく。ハリーの口癖、Manners make man(マナーが紳士を作る)をモットーに、英国紳士にして悪をやっつけるスパイになっていくのだが、このスパイ組織、「親方ユニオン・ジャック」ではない、つまりは、政府とどこかでつながっている組織ではないところがすばらしい。「キングスマン」は、名前こそ「キング」がついているが、英国製というほどのイミしかない。「女王陛下の007」とは大違いである。私設の組織である。だから、人民を無視する首相は失墜し、彼を補佐していたエイミー・ワトソンに告発される。という、「小さな」スジまである。


 007と大きく違うのは、主役は、若造で、しかもスエーデンの王女と恋に落ちたため、逆タマの、王子にまでなってしまうのである。彼女へ求婚したエグジーは、スエーデンの王と王妃という、「恋人の両親」との食事も、ハリーが教え込んだマナーと、同僚が「秘密の通信」(メガネがコンピュータになっている)で与える知識によって、教養も礼儀作法も王家にふさわしいムコとなるところは痛快である。


 おっと、メインストーリーは、ジュリアン・ムーア扮する、悪の麻薬組織を壊滅させるまでの戦いであるが、この悪の帝王は、今まで男性が演じてきたが、予想されたようなお飾り的存在ではなくて、しっかり堂々と「強敵」なのである。


 テーラーを隠れ簑としている「キングスマン」は、同僚をやられ、マーク・スロング扮する、メカ担当のマーリンと、エグジーしかいなくなって、「最後の非常事態」用のウィスキー試飲部屋に入ってみると、そこには、スコッチはなく、バーボンがあり、瓶の銘柄は、「ステイツマン」とある。いざ、アメリカ、ケンタッキーのバーボン製造所へ!


 ブーツを履いた「ステイツマン」側には、カーボーイなお兄さんたちが待っているが、ここでもスジはそれほど単純ではなく展開する。


 そこには、眼を撃たれ死亡したハリーが生きていて、もとの「キングスマン」リーダーに返り咲く──。なにがおかしいと言って、小技の武器が、007よりエロいのである。そのひとつは、コンドーム型指サックで、エグジーが「フェスでコマした」敵側のオトコの恋人の女の「そこ」へ差し入れると、「粘膜を通した情報」が、ハル・ベリーらのモニターに映し出される。「あら、テキーラ(チャニング・テイタム)もやってたのね、感心!」なんていうセリフまである。


 小柄な体に筋肉をつけたエグジーだが、やはりどこか少年っぽく、そこが魅力で、抜群の運動神経も武器ではあるが、襲ってくるメカを「ハッカーして」逆に敵に向かわせるなど、現代的で小回りが利いている。もうオッサンがかっこつけて美女を侍らせる時代は終わった。エグジーはあくまで王女の恋人ひとすじで、昔のストリート仲間とつきあっている。政府などあてにならない時代のヒーローにぴったり。


 


 


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『ロケットマン 』──タロン・エガートンの軽さが作品を脱物語化(★★★★★) [映画レビュー]

『ロケットマン』(デクスター・フレッチャー、2019年、原題『ROCKETMAN』)

 

 すでに若手俳優界も様変わりして、容姿がすぐれた人間などどこにでも落ちているので、まず演技力がなければオハナシにならない。かてて加えて、オリジナリティー、現代の軽さも身につけていなければならない。そういう意味で、『キングスメン』のタロン・エガートン、『ベイビー・ドライバー』のアンセル・エルゴート、『スパイダーマン』のトム・ホランドには注目していたが、とくに、『キングスメン』の、ストリートキッズからエージェントに拾われ、りっぱなエージェントに成長していく、タロン・エガートンにとくに注目していた。その彼が、まったくイメージの違うエルトン・ジョンを演じるとあれば、なにがなんでも駆けつけないわけにはいかない。そういえば、『キングスメン』で、エルトン・ジョンその人は、カメオ出演していたな。そういうつながりもあるのだろう。

 『キングスメン』では、完全なる無名俳優の大抜擢であったが、彼の軽さが、「スパイ物」を新しいものにしていた。本作も、エルトン・ジョン自身には、風貌や持ち味からは似ても似つかないエガートンであるが、無理に似させようとはせず、彼の解釈したエルトン・ジョンを、彼自身と重ねながら、ほんとうに楽しんで演じていて、この俳優の底知れぬ可能性を感じた。

 映画じたいも度肝を抜いて、苦い半生ものではあるものの、ドラマのなかに没入したものではなく、なんと、いちばん暗いシーンで突然歌い出す、ミュージカルであった(笑)! 厳格な父親さえが歌い出せば、映画は脱物語化され、たんなる大スターの伝記ではなく、そこに批評が入り込む。なんせ、内気な少年が、ど派手なロックスターになりました、で終わりではなく、その大スターが、アルコール依存症のグループセラピーに出て、そこで自らの生い立ちを語る設定になっており、そこには、「上から目線」のようなものは、あらかじめ排除されている。

 エルトン・ジョン自身も制作者に名を連ねているのだから、「監修」の目はあったと思うのだが、それを、タロンに自由に演じさえ、歌わせているところにも、器量の広さを感じた。芸術がなんであるか考えさせる、知的ですがすがしい作品である。




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