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熊野純彦著『マルクス資本論の思考』──反唯物論的感傷解釈(★★) [Book]

 

『マルクス資本論の思考』(熊野純彦著、  2013年9月、セリか書房刊)

 

この著者のエクリチュールの特徴は、なんでもセンチメンタルにしてしまう。それと、ニュートラルな文章では当然漢字を当てるところを、ひらがなで開いてしまう、どうもそこが、ガラスの表面を金属でキーキー引っ掻いているような気持ち悪さがある。

 

 目次を見ると、ほぼマルクスの『資本論』のままである。そのいちいちを、センチメンタルな解釈を添えているだけである。しかし、ここまですべてやり遂げたことには、ある種の敬意を表する、それだけである。著者の言う、「今の世界はマルクス化している」の意味がわからない。ちなみに、中国共産党幹部の多くは、マルクスの『資本論』はまったく読んでないそうである(笑)。

 

『資本論』のような、徹底して唯物論的なテクストには、どんな「解釈」=「切り口」も可能である。ゆえに、著者が「十代のすえから三十代のはじめにかけ」て、参加していた、読書会のリーダーだった、廣松渉的な読みも、アルチュセール的な読みも、また、ミシェル・ヘンリー的な読みも可能であろう。カントやベルクソンの訳書もある著者のことであるから、当然原書で読んだのであろう。

 

 私も本書のレビューを書くにあたり、十年ほど前に読んだ、『資本論』(筑摩書房の「マルクスコレクション」シリーズⅣ、Ⅴ)を再読してみると、「凡例」からして重要なことがわかった。曰く、

 

 「「剰余価値」、「剰余労働」の「剰余」という表現は、厳密には問題的な訳語であるが、これはすでに人口に膾炙し、ほとんど日本語に固定しているので、変更しないでそのまま採用した。云々」

 

 「剰余」のドイツ語は、Mehrwert(s) で、mehr は、「より多くの」、(der)Wert は、「価値」である。

 

 また、永山則夫を引き合いに出し、彼が『資本論』を手にした時に最初に目にしたであろう章を勝手に推測しているが、これも、「第一の序文」を飛び越して、本文に入っているが、「第一の序文」には、以下のような文章がある。

 

 「なにごとも最初がむずかしい、という諺はすべての科学にあてはまる。したがってここでも第一章、すなわち商品分析を含む箇所が理解するのに一番骨が折れるだろう」(鈴木直訳)

 

 Aller Anfang ist schwer, gilt in jeder Wissenschaft. Das Verständnis des ersten Kapitels, namentlich des Abschnitts, der die Analyse der Ware enthält, wird daher die meiste Schwierigkeit machen.

 

 (「科学」という部分は、「学問」の方が一般的だと思うが)

 

 なるほどそのとおり、『資本論』は、終わりにいくほど「簡単に」なっている。「神は細部に宿りたもう」ように、『資本論』においても、「序文」と「原注」に、多くの「情報」がある。「情報社会」の21世紀こそ、それらを検討する「価値」があるように思う。しかし、本著者は、本文を「意味内容」に変換し、自身の「おセンチな思考」の表現を与えているのみである。

 

 こんな「解説本」?を読むくらいなら、直接『資本論』を読むことをオススメします。とにかく、熊野純彦という学者センセイは、岩波文庫のベルクソン訳でもそうですが、ただでさえ難しい原著を、より「(おそらくはそのセンチメンタルな解釈によって)わかりづらくしてしまうクセ」があるので、要注意です。

 

****

 

(少なくとも)P37と、P51に、誤植あり。

 




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