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『ミューズ・アカデミー』──スペイン語に侵入されるイタリア語の美しさ(★★★★★) [映画レビュー]

『ミューズ・アカデミー』(ホセ・ルイス・ゲリン監督、2015年、原題『LA ACADEMIA DE LAS MUSAS/THE ACADEMY OF THE MUSES』

 

 ミューズというと、俗人は、芸術家が勝手に、恋愛相手の女性に与える「称号」のようなものに思う。とくに日本人は。そうやって、大御所でも駆け出しでも、女漁りの言い訳にしたりする。谷崎潤一郎のミューズは、のちに妻となった谷崎マツコ……もとい、松子夫人である。体型を崩さないために、妊娠したのに、出産を許さなかったとか──。なんとも勝手な「ミューズ礼讃」である。そういうのが下地にあるから、あまり見る気をそそられなかったが、現実のイタリア人教授が、バルセロナの大学で、独自の「ミューズ学」を展開し、教え子や妻と渡り合っていくという内容を知って興味をそそられた。これは絶対見ないと、わからない部分があると思った。

 

 事実その通りだった。とくに教え子たちとも関係を持っているようで、そのあたりは、現実なのかフィクションなのか……。微妙な陰影、光、光が作る形、などを自ら撮影し、まんまゴダールの影響もあるかと思われるが、虚と実の境界線が、車のウィンドウを通した(決して「内側」からではなく、あくまで「外から」撮影)人物の表情のなかに溶けていく──。そして、高度な「ミューズ論」。

 

「ダンテはベアトリーチェというミューズを創り出したんだ」と、教授は言う。ミューズによって芸術的インスピレーションを与えられるというよりも、詩人自らがミューズを創造していく、それが「詩」なのだ。

 

 どうにも勝手な論理のようだが、教授 V.S. 女の教え子(確か聴講は女性のみ(笑)?)と、いっしょに聴講している彼の妻で文献学者で評論家の知的老婦人。このカップルは、サルトルとボーヴォワールのようである。しかし、おフランスと違って、ラテン系は、いかにも自然である(笑)。

 

教授、イタリア人、妻、スペイン人、場所はスペイン、バルセロナ、女子大生たちも年齢はばらばらに見える。おそらくは、外部にも開かれた「ミューズ学」なる講座なのだ。

 

 スペイン人の聴講生たちは、教授とはイタリア語を使う。イタリアのサルジニア島へ、羊飼いたちの生活をフィールドワークに行く、ひとりの聴講生(小娘というより熟女に見える)といっしょに。彼女は羊飼いの、自然から受ける音、鳥の鳴き声、風など、それらは目に見えないが、を説明されて、彼に恋する──。

 

 つまり、恋愛とは、言葉なのだ。そして、おそらく、日本にはない、そういうことを知らされる。そして、スペイン語に侵入されながらも、毅然たる美しさを放つ、イタリア語の響きに魅了される。





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