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【詩】「猿蓑2017」 [詩]

「猿蓑2017」

 

冬でなければならない

 

時雨でなければならない

 

旅人でなければならない

 

そして

 

猿でなければならない

 

露伴を通さねばならない

 

とりわけ思い出されるのは、母方の故郷の三河一宮の砥鹿神社のお祭りの、境内に出ている見世物小屋。今でこそ人権問題に抵触するので、そういったものは消滅したと思われるが、当時は、見世物が祭りに華を添えていた。蛇女だの、牛男だの。ものものしい看板には、赤ん坊を取り上げる白衣の医師の姿が描かれている。そして、体が鳥の人間。下半身が蛇の、着物を着た女。猿は、生身の猿で、小屋の外の台の上に繋がれていた。首に繋がれた鎖は、長さが、猿の手が台の上に着くほどにはなかった。だから猿は、中腰のまま中途半端な姿勢で群衆の前に晒されていた。あの猿の気持ちに、五十年以上も経った今もなってみるのだ。そうすると、時間の中に時雨が降り、そう、その名のとおり、時の、雨であることがわかる。

 

  初しぐれ猿も小簑をほしげ也  芭蕉

 

 

「幻術の第一として、その句に魂の入らざれば、ゆめにゆめみるに似たるべし」(其角序より)

 

その猿の魂を鎮めようと、長い間願っていた。

 

「小みの」は西行の歌語なり。

 

「集の第一に多の句を出したる、おもしろし。代二の和歌撰集には、春をこそ巻首に出したれ。それを古例にかゝはらずして、此頃の此句のふりを中心にして成りたる集のはじめに、初時雨をさつと降らせたる、いかにも俳諧の新味なり。

 ○ほしげ也。舊説に、定家卿の、篠ためて雀弓張るをのわらはひたひ鳥帽子のほしげなりけり、といふ歌に本づけりとなせり。されど此句は所謂『古歌取り』の句にはあらず。古歌取りの句といふは、後の人の句にて、秋来ぬと目にさや豆のふとりかな、といふやうなるを云ふなり。ほしげなりといふ語は、いかにも古歌に見えたるべきも、そは胸中に萬巻有れば、語を下すおのづから来歴無きは無きものなり。あなぐり論ずるはおもしろからず。引きたる歌も定家卿のにはあらず、夫木和歌抄巻三十二に見えたる西行小人の歌なり」(幸田露伴『評釈猿蓑』より)

 

そして、芭蕉は西行に導かれ、地獄めぐりをするのだった。

 

かなたには、ベアトリーチェの星。ホログラムの。

 

深い深い時間の谷。

 

ゆきかうは、宇宙艇。

 

  だまされし星の光や小夜時雨  羽紅

 

羽紅。集中最多の躍進、凡兆の妻。のち、剃髪。凡兆も入獄、没落。

 

 

 広沢やひとり時雨るゝ沼太郎  史邦

 

沼太郎はヒシクイの一種。暗い雨の沼でひとり立っている。いよいよ時間は深く、空間も深い。

ヒシクイは雁の夢をみるか。

 

最終巻の巻之六は、芭蕉が住んだ「幻住庵」のエッセイと、そこを訪れた人々の句に記録である、「几右(きいう)日記」とで成っている。

 

「几右日記の句、佳章いくばくも無し、多く是れ當日即席率爾の作なれば責むべからず。此集第六巻は幻住祈りのみの事にかゝる。猿蓑に取りては附録やうに見て可なり」(露伴『評釈』より)

 

雨が降っても簑を着る人はおらず、

 

 

 

 


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