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【詩】「やまと魂」 [詩]

「やまと魂」

 

犬の散歩で通り抜ける護国神社は、

十二万柱(神の単位呼称は「柱」である)の「英霊」が祀ってあると、鳥居横の石碑に刻まれ、広大な敷地では、蚤の市や音楽祭が開かれる。ときに、黒塗りのセダンや看板をつけたトラックが並び、黒づくめの男性たちが、ヤクザの親分を待っている手下どものように、神妙な表情をして整列している。顔を見れば、皮膚がピンと張り、まだ若さの片鱗を感じさせる人もいる。もちろん年季の入った顔もある。今日も、

それほど大規模ではないが、黒く磨かれたセダンと看板付きが並び、四、五人の男性が整列しているところを通り抜けた。私はその時、頭の中に、この人々への問いが浮かんだ。

 

やまと魂をご存じですか?

 

それは、きちんとした漢語の『日本書紀』に対する、

だめな漢語の『古事記』に現れているものです。

なぜ、だめなのか?

それは、論理ずくめの外国語に向かい、

なんとか、自分たちの言葉を創り出そうとしたからです。

翻訳とは

おのれの言葉を創り出そうと格闘すること、

外国の思想でも、日本語に訳されていたら、それは、

日本の思想なのです。

それは、「置き換え」ではないのです。

精神の格闘なのです。

 

やまと魂という言葉を初めて使ったのは、

紫式部です。

やまと心という言葉を初めて使ったのは、

赤染衛門です。

 

赤染衛門の家に乳母がきて、その乳が出ないのを、

文学博士である、夫の大江匡衡(まさひら)がそれを難じて歌を詠んだ、

 

 はかなくも思ひけるかなちもなくて博士の家の乳母(めのと)せんとは

 

(乳(智)も出なくて、よく博士の家の乳母をしようなどと思ったものだな)

 

 赤染衛門返し、

 

 さもあらばあれ山と心しかしこくはほそぢにつけてあらす許(ばかり)ぞ

 

(しかたありません、大和心さえ賢ければ、細い智恵(細乳)があるという理由で置いておくだけです)

 

やまと心、やまと魂とは、

 

論理を超えた、ひととしての配慮ができる、

女ことばなり。

 

 


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