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『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』──失われたアイデンティティーを求めて(★★★★★) [映画レビュー]

『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』(アルノー・デプレシャン監督、2013年、原題『JIMMY P./JIMMY P. PSYCHOTHERAPY OF A PLAINS INDIAN』


 


 本来なら映画にしにくいものを映画にしている。というのは、人間のアイデンティティーは、その人間が属する文化と無意識の層で深く関わっている。それが侵された時、人は身体的に異常を訴える。映画でも見る通り、主人公ジミーは、肉体的にはなんら異常がない。ゆえに外科的な治療法では解決されない。薬も効果がない。こうした病への糸口、無意識の存在を発見したのは、フロイトであるが、その後、文化について、広くフィールドワークをして、文化人類学的分析を開発したのが、この映画の「医師」役の、ジョルジュ・ドゥヴリューである。しかし、一方で、フランスには、レヴィ・ストロースも存在し、彼らは同年生まれ(1908年)、同じような、インディアンとの生活をともにするフィールド・ワークもしているが、ここでは言及されない。


 精神分析にとって重要なのは、言葉である。従って、本作がセリフが多いのはしかたのないことである。本作で映画的に目を見張る場面は、インディアンの血など入っていない(イタリア、スペインの血は入っている)、ほんとうは、色白、青に近い目を持つ、かつての出演作『スナッチ』では、ブラピと見まごうほどであった美形の、ベニチオ・デル・トロが、ネイティブ・アメリカンになりきり、インディアンの言葉を流暢にしゃべってみせるところであり、また、「医師」から、絵を描くように言われた時、ペンキの塗られた紙に、さっと指で描いて見せるしぐさである。


 また、「医師」の、ジョルジュ・ドゥヴリューは、本名は、ジョルジ・ドボといい、当時はハンガリー帝国の一部であった、ルーマニアに出身で、父はリベラル、フランスびいき、母は保守、ドイツびいきの、ユダヤ人の出自で、その文化的不安定さは、インディアンでありながら、アメリカ人として従軍し、またインディアンゆえに差別を受ける(黒人ほどではないにしても)ジミーと重なるものがある。しかし、ドゥヴリュー(Devereux)とフランス風につけた名前の、evreuとは、ユダヤ人という意味であり、決して、そこから逃れたいわけではなかった。そうした二人が、インディアンの部族の言葉を介して、なんと!、ジミーの「エディプス・コンプレックス」を掘り当てる。そしてそれが、ドゥヴリューの、「分析医」としてのアイデンティティーを確立していく……。そういう、「医師」が「患者」に助けられる映画でもある。


 私は本作によって、今の時代こそ、文化人類学的分析がふたたび注目されるべきだろうと思わせられた。


 ドゥヴリューを演じる、アマルリックは、ほんもののドゥヴリューの写真(陰気くさい)より明るい雰囲気で、彼の持ち味のお茶目さも発揮されていて、なかなか難しい内容の映画にエンターテインメント的やすらぎを与えている。


 本作レビューでよく目にする、PTSDは違っていると思う。なぜなら、ジミーは従軍しても、誰も人を殺さなかったし、地雷を見つける作業は緊張は伴ったが、並外れてひどいものではなく、彼の心=アイデンティティーは、それ以前に、「粉々に」なっていたのだから。



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