SSブログ

伊藤浩子詩作品「過失」について [文学]

 伊藤浩子さんの詩が、『現代詩手帖』9月号の詩誌評に取り上げられているとFacebookに書かれていて、なんとなく見てみると、部分的に引用されていたが、全体がどんな詩なのか、興味を持った。その旨コメントすると、ご奇特にも、その詩誌を送ってくださった。それは『喜和堂』という同人誌で、なんで「喜和堂」というのかなと思ったら、野村喜和夫さんという方が主催されているのだった。
  この詩誌は、A4版で、一般的な雑誌、同人誌に比べて大型なので、目立つといえば目立つ。しかし、その判型そのもののように大味な感じの詩誌である。私も二十歳前後頃は、『現代詩手帖』に投稿していて、投稿欄の常連となって、その頃は、いろいろな同人誌に誘われ、詩人とも交流があった。しかし、今でも疑問に思うのは、なぜ詩人たちは群れるのか? ということである。そういうのがイヤで、「詩活動」はやめてしまった。それから久しいが、また、Facebookの芋づるつながりで、詩人と称される方々、「詩活動」をしている方々と、お知り合いになるようになってしまった。
 伊藤さんの、この詩誌に載った詩は、「企画 ルネ・マグリット展を書く」という「企画」のもとに集められた詩のひとつだった。あまり食指をそそるような企画ではないが、これは、架空の展覧会として書かれているのか、実際の展覧会を見ての詩作なのか知らないが、集められた十人の詩人の詩の中では、頭抜けて求心力のあるものに思った。『過失』という題のその詩は、「Y氏とマグリット展へ行く」ありさまを詩にしているのだが、ところどころの表現は、シュールレアリズムの、あの、間延びした不条理を感じさせる。ところで、最近ときどき、シュールレアリズムなる言葉を聞くが、なにか過ぎ去ってしまってものを蒸し返しているような感じが私はしている。そして、なぜマグリットなのか? マグリットとして、私が思い浮かべるのは、山高帽を被った顔のない、あるいは、顔に中央にりんごか何かが描かれている人物で、それは、正確かどうかわからない。また、ポール・デルボーの絵にもつながっていく。「詩人」たちは、そういう光景に惹かれるのか?
 しかし、伊藤さんの詩の言葉は、Y氏と展覧会へ行くために選ぶワンピースに関しても、「永遠も半ばかと思えるほどの長い袖に腕を通し、片方ずつデザインの違う靴を履く。潮騒がY氏の背中から届く」と、夢の中の文法を損なうことなく描写されていて美しい。正直な人間性が、正直な言葉で選ばれていて気持ちがいい。
 だから、私はやはり、伊藤さんに僭越ながら忠告したいのは、群れないで、Kincos版でもなんでも、個人誌なり個人の詩集にして、作品を世に問うてほしいということだ。
 この詩誌は、編集がぎこちなく、笑ってしまうのは、散文のページで、一人一人の長さはある程度自由でも、詩誌上のページ数はひとりあたり1ページにしているのか、活字の号数がいろいろ違えてあるところである。なんか見苦しい。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。