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『顔のないヒトラーたち』──「年寄りを捕らえてみればナチスかな」(★★★★★) [映画レビュー]

『顔のないヒトラーたち』(ジュリオ・リッチャレッリ監督、2014年、原題『IM LABYRINTH DES SCHWEIGENS/LABYRINTH OF LIES』

 

「アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮だ」などというアドルノの有名な言葉があるが、その「アウシュヴィッツ」は、初めから誰もが知っている存在としてあったのではなく、本作が描くように、「発見され、告発されねばならなかった」。それでこそ、「あのアウシュヴィッツ」は、アウシュヴィッツとして存在する。本作は、ドイツで、ある新聞記者が検事局へ告発に行って、まったく相手にされないところから始まる。それは1958年のことで、ドイツでは、ナチスの記憶など忘れてしまいたいところであった。この時点で、今誰でもが知っている「アウシュヴィッツ」を、ドイツ人でさえもが知らなかった。

 過去の傷など誰も掘り起こしたくない。だが、検事総長は虎視眈々と掘り起こされるのを待っていたかのように見受けられる。そこへ1930年生まれ(つまり、「当時」、加害者(ナチの兵士等)であり得る可能性のない、正義感溢れる若手検事に、すべての調査が託される。殺人に関してのみ、時効が生きていて、証人を集める。しだいに明らかにされていく、耳目を覆いたくなるような事実──。

 細部が事実と違うとか、エンターテインメントな要素などいらないというレビュアーもいるが、映画は、表現であるかぎり、すべてエンターテインメントである。恋も愛も、ラブシーンもあっていい。とくに、徐々に事実を知り、誰でもナチであり得た時代、もしかしたら、自分の父もナチだったのではないか? と疑いを持ち始める、新米検事のヨハン役の、アレクサンダー・フェーリングの端整な表情がいい。この端整さが表しうる世界がある。それが、ドイツがドイツの犯罪を告発することに目覚めるという世界である。

 ポーランドのアウシュヴィッツで行われた歴史的「犯罪」を暴くことにまったく乗り気でなかった検事局の人々も、やがて真剣になっていく。

 これはドイツ人が法の中で、反省し、おのれの過去を裁こうというハナシだが、これとはべつに、ユダヤ組織も、元ナチの「犯罪者」を追っている。映画にもあるように、幹部だった老人たちはたいてい南米へ逃亡するが、そこへもユダヤ組織は執拗に追っていく。フランスなどもこうした元ナチの老人を裁いている(Ex.バルビー裁判)が、こうした「人道に背いた罪」には、時効はない。 

  老人を捕らえてみればナチスかな  内藤陳 

 

 悲惨な事実は事実として浮かび上がらせながら、画像的には極力抑えめなのが、フェーリングの上品な風貌とよく合って、心地よいカタルシスに満たされる。



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