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『手紙は憶えている 』──認知症探ってみればナチスかな(★★★★★)(ネタバレ注意!) [映画レビュー]

『手紙は憶えている』(アトム・エゴヤン監督、2015年、原題『REMEMBER』)



 元ナチス親衛隊も、南米などに逃げ、ユダヤ協会などの執拗な追跡で捕まり、多くの老人が、人道を犯した罪(時効なし)の裁判にかけられている(ハーグの人道裁判所など)。すでにそうした老人も高齢に達し、本作のように記憶が定かでなくなっているだろう。ナチスの殲滅収容所を生き延びた人々とて同じであるが、こちらは、当時子どもだった人もいるので、まだ、ナチス関係者で権力を持っていた人たちより、記憶も確かな人がいるだろう。


 そうした状況の今、やはり一人の収容所サバイバーの老人が、老人ホームに二人いて、一人は記憶は確かなれど、車椅子生活を余儀なくされている。もう一人は歩けるけれど、認知症を患って、日に日に記憶は薄れている。従って、歩けない方の一人が、彼らの家族を死に追いやった、ナチスの男、ルディ・コランダーを探すよう、歩ける方に託す。しかし歩ける方は、朝目覚める度に記憶を失っていく。従って、車椅子の方は、かなり周到な準備(行く先のホテルの支払い、銃の入手方法など)をしておいてやって、おまけに手紙を渡し、その手紙を一日一日読めば、自分のしていること、目的などがわかるようにしてやる。


 果たして、その憎き仇、「ルディ・コランダー」を探す旅に出る、ゼブ・グッドマンことクリストファー・プラマーは、「ネズミの嫁入り」のように、三人のルディ・コランダーを渡り歩く──。


 


 結局、本作のキャッチコピーにあった、「想像を絶する結末」ですでに想像できるように(笑)、そう、もしかしたらのそれ、ゼブ・グッドマンこそが、そのナチスだったのだ。そうして、やっと出会ったほんものの、ルディ・コランダーは彼の仲間だったのだ。腕の数字の入れ墨は、逃げるために、わざと二人で彫り合ったのだった。それを、ルディから明かされたゼブは、ルディを撃ち、自分の頭をも打ち抜く。二人のナチを成敗したのは、車椅子の真の被害者だった──。


 


 本作は、さまざまな問題を提起しているが、とりわけ注目されるのは、ありふれたナチスものではなく、やはり認知症という老人問題である。薄れていく記憶のなかで、クリストファー・プラマーは、銃の腕だけは狂ってなくて、二人目のコランダー候補(すでに死亡)の家で、やはりネオナチの息子に「ユダヤ人」だと気づかれて、殺されそうになると、逆に用意していた銃でその男を倒す。それが胸と頭(銃の基本)と二度命中し、確実に死に至らしめる方法を「手は憶えていた」。


 認知症という状況のなかで、人の記憶は、いったいどんな意味を持ち、その過去を裁くことはいかなることになるのか──犯罪が、ただ加害者と被害者と、くっきり色分けできない世界を、エジプト人、アトム・エゴヤン監督は、『デビルズノット』『白い沈黙』と、三作続けて描いている。

 

 



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