『ムーンライト』──歴史初の繊細さを表現した黒人映画(★★★★★) [映画レビュー]
『ムーンライト』(バリー・ジェンキンズ監督、 2016年、原題『MOONLIGHT』)
確かに日本でも、都会では外国人(外形が明らかに違う、アジア系ではない人々)が結構いるが、地方では、日本人ばかりの地域もあると思う。本作の舞台は、マイアミだそうだから、それほど田舎でもないと思うが、とにかく本作には黒人しか出てこない。これを「黒人コミュニティ」と取るのもよいが、本作が戯曲だったと知って、あるいは、映画化にあたり、「演出」で、全登場人物を黒人にしたのかではないかという考えがめきめきと頭をもたげた。というのも、黒人しかいないのに、主人公のシャロンは、同級生から、「クロ」だの「ニガー」だのと呼ばれ続けている。これは、日本人のコミュティで、イジメの対象の一人を、「ジャップ」だの「イエローモンキー」だの呼ぶことと等しい。自嘲気味の皮肉でそう呼んでいるのかもしれないが、もしかしたら、舞台では、いじめっ子たちは、白人やプエルトリコだったかもしれない──。
さて、全員が黒人映画となると、白人映画をかくも見慣れた日本人たちは、自分たちは白人に属していると、無意識に思い込んでいるフシがあるレビューが多々見られる。
かつては、南アフリカ共和国で、アパルトヘイト「華やかなりし」頃、日本人は、「名誉白人」なる特別称号をちょうだいして悦に入っていた。まこと、モンキーである(笑)。
まあ、なんというのかな、白人文化にとっては、白人とカラード(有色人種)にしか分けられないということだ。白人から見たら、日本人だって、本作の映画のように、「異形」の人々である。
しかし、本作は、『ラビング』のように、黒人差別を扱った映画ではないことは一目瞭然である。なぜなら、差別する白人がどこにもいないからである。
ある(クスリの)売人が登場する。のっけからワルでないことがわかる。ジャンキーたちのたむろする場所にある廃屋を覗いてみると、小学生らしい男の子がいて驚く。やがて、男の子は居場所がなくてそこに来ていることがわかる。少年の母親はヤク中で、彼は同級生から苛められていることがわかる。売人は妻の助けも借りて、その少年を保護し、人生に必要な教訓も与える。少年はおとなしく純真で、それは高校まで維持される。イジメが頂点に達した時、彼は「変身」する。苛酷さが度を超すと、あどけない少年が鬼に変わるのは、『スターウォーズ』のアナキンがダースベーダーに変身するがごとくである。
かくして、純真な少年は、鬼になり、苛めのリーダーを椅子でぶちのめす。警察に逮捕される。
その少年は結局、はじめに彼を助けてくれた売人と同じ職業になった。筋肉隆々、フェイク金歯を入れ、首からはゴールドチェーンのネックレス。典型的売人スタイルである。少年、今はおとなの、シャロンは、売人として手下を使いうまくやっていた──。そんなある日、二本の電話がかかってくる。一本は「立ち直り」の施設にいるらしい母親から、もう一本は、かつて苛めグループにはいたが、海岸で心を通わせ、唇を合わせた「ただ一人の友だち」と言えた男から。今は小さなレストランのシェフになっているという。
売人シャロンは、車を走らせ故郷に帰る。もう一度、自分の生き方を見直すために──。
小学生、高校生、成人と、三人の役者がシャロンを演じているが、どの役者も、これまでのハリウッドの黒人俳優が与えられたようなある意味ステレオタイプの黒人像を超えて、微妙な繊細さを表現していてすばらしい。また、彼の母親役に、イギリス人で、これまでは、『007』のエージェント職員や、『われらが背きし者』では、サエない大学教授役のユアン・マクレガーの、サエてる弁護士の妻など、知的美人の役柄が定着している、ナオミ・ハリスが、あえて、「黒人度」を強調し、「私のようなクズにならないで !」と主人公に泣いて頼む、ヤク中母を熱演している。
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