宇佐美ゆくえ著『夷隅川』──基礎を踏まえた端正な歌集(★★★★★) [Book]
『夷隅川』(宇佐美ゆくえ著、 2015年5月、「港の人」刊)
Facebook友の、お母さまの歌集で、初版は、2015年5月15日、それからほどなくして著者は亡くなられたと聞く。もとよりなんの知識もなく本歌集を読み進むと、新婚時代から子を経て、子供たちが独立し、やがて孫もかなり成長した姿で登場し、一人暮らしに戻り、ケアバスを待つ日々の、心の軌跡のようなものが書きつづられている。きょうびの若い歌人だと、もっとハデな歌が多く、本歌集などは地味のなかに沈んでいくか、見過ごされるようだ。だが、斎藤茂吉は、次のように書いている。
「檐から短い氷柱が一列に並んでさがつてゐる。それから白い光が滴つゐる。それを一首の短歌にしようと思つた時、ふいと比喩にするいふ思が浮んで、『鬼の子の角ほどの垂氷(たるひ)』と云つた。段々読み返して見るとどうも厭味である。それは鬼の子では余り目立ち過ぎてはいけないのだと思つた。それならば、『山羊の子の角の垂氷一並び』かと思つたが、どうも落付かない。『めす犬の乳首のやう』とも思つたが、どうもいけない。とどのつまり、『ひさしより短か垂氷の一並』といふ平凡な写生にして仕舞つた。比喩の句法で晶子女史は名手であるが、短歌に比喩の句法を用ゐるといふ事は余ほど大きな力を持つ作者でなければ駄目だと思つた。奇抜な比喩などは存外楽なものであるが、短歌では奇抜なほど厭味に陥るやうである。『ごとく』とか『なす』とか『の』の連続とせしめないで、一首を貫いて象徴にまで進むのである」(「童馬漫語」55写生『斎藤茂基地歌論集』岩波文庫、所収)
そう思えば、ちまたに溢れるいかにも新しき衣装、意匠をまとった歌など、厭味のオンパレードである。
この歌集の題名を見たとき、すぐに、音の連想から、
みかの原わきてながるるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ
という、百人一首で同じの歌を思い浮かべた。いかにも女性らしい歌であるが、作者は、中納言兼輔である(新古今集所収)。
本歌集の著者、宇佐美ゆくえにも、そういう心の輝きがあり、それらが収められているのが本歌集である。こんにち、多くの自称、多少「歌人」たちが忘れている基礎がここにある。
揚水の早や始まりて暁の野を光りつつ水の走れり
美しいリズムと朝の光が重なって、生きる喜びがそこにある。
職場への道急ぎつつふりかえる風邪の子ひとり残るわが家を
一瞬の思いを文字に留めている鮮やかさ。
雷鳴におびえる園児抱きつつ遠き日の吾子をおもい出しぬ。
ここには、他人の子と自分の子と、時間差の違う、子供への愛が隔てなくうかがわれる。これを比喩にはできないだろう。
霜白く勤めに急ぐこの堤きょうも一羽に白鷺にあう
乙女らは幻のごとく声あげて雪降りいでし橋渡りゆく
これらは写生の美しさのよく表現された初期作品である。晩年になると、写生ばかりもしていられず、「心理」が介入してくる。それは、時代の変化でもあるだろうし、そういう時代に老年を迎えた者の宿命であるかもしれない。
飛び跳ねて、これが歌と思い込んでいる自称歌人の方々がは、本歌集を読んで、勉強してほしいと思う。
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