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『判決、ふたつの希望 』──言葉の重さ(★★★★★) [映画レビュー]

『判決、ふたつの希望 』(ジアド・ドゥエイリ監督、2017年、原題『L'INSULTE/THE INSULT』 

 

この映画では、われわれ日本人の常識とまったく違うことがあり、その事実がどんどんわれわれを引きつけていく。それは、言葉の重さである。言葉が具体的な暴力行為と同等、いやそれ以上に扱われ、それがこの「事件」を国家レベルのものへと押し上げていく。

 

 最初に誰が作った知らないが、この映画の配給会社の人か評論家かが、この映画の梗概を作るのに、「ささいや口論」から始まったとした。これはそもそも、「ささいな口論」ではない。原題を見ればわかるように、「(言葉による)侮辱」である。これが、フランスが支配する中東圏では非常に重く扱われている。刑法にも、「言葉によるひどい侮辱に対する肉体の暴力での反論は罪を問われない」ということが明記してある。これには驚いた。日本の刑法にはあり得ない。言葉という、具体的なかたちのないものに対して、法律的な規定はできない。しかし、この国ではそれは誰もが認める自明なことになっている。つまり、彼らは、生地はどこであろうと、同じアラビア語を話すアラブ人なのである。それだからこそ、レバノンは、110万人という、世界第三位の難民受け容れ国なのである。つまり、難民なくしては国は動いていかない。ゆえに、「不法労働」など問題とされない。難民は、本作のようなパレスチナ人もおれば、当今のようにシリア人もいるだろう。そして本作は、一見、異なる宗教、国家の問題と見えながら、そういう問題も必然的に浮き彫りにされるのだが、やはり、個人の、人間的な問題がテーマなのである。

 

 レバノンといえば、主人公の一人のトニーが6歳頃からずっと内戦が17年間も続き、トニーもその被害者だった──。反政府派がテロリストと化したヒズボラ(これが住民支援などをしたり、国会議員なども出しているので、問題はさらに複雑化している)の地であり、それは、20年前なら、ジョージ・クルーニーのCIA工作員が活躍する『シリアナ』などというスパイものになっているのだが、さすが当今、それはもうズレていて、いまは、複雑な国際情勢下を、あくまで心を持った人間としてどう生きるかになっている。ゆえに、もう一人の主人公のパレスチナ人の男の方が、自分がされた言葉の侮辱を相手に投げつけ、自分がした、殴るという「反応の暴力」を相手から受ける。それで「互角」にする。ここを見落としてしまったら、この映画の意味はまったわからないものになってしまうだろう。時代が進むにつれ、問題は、微妙に変わっていく。そこのところを非常にうまく描き出している。



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